2016年8月11日木曜日

いざ、厚木へ、三〇二航空隊司令官の小園安名のもとへ

途中安藤は自宅に佐藤を招き、急ぎ飲み物を積み込んで、一路厚木基地へと出発する。
実は安藤はいかなるときにも勘がよく、自分らの飲み分以外にトランクに家のありったけの酒を積んでいた。

再び仲原街道を南下する。直ぐに右手に洗足池が見えてくる。
日蓮上人が足を洗ったとかでその名がついている。池はこんもりとした森に囲まれ、裏山には桜山という名所がある。桜の満開時には多くの花見客でにぎわう。

多摩川の丸子橋を渡ると神奈川県川崎市にはいる。小高い山の上は慶応義塾の日吉キャンパスがある。綱島温泉を経てやがて横浜市に入り、東海道、国道1号線を下り藤沢市から右折して厚木基地に向かう。

厚木基地ではなにが起こっていたのか、しばらくその背景を説明しておきたい。

反乱事件のリーダーは海軍大佐の小園安名である。
小園大佐は三〇二航空隊の司令官で、生粋の戦闘機乗りであった。ラバウル航空隊司令のこらから、数々の戦果を上げていた。三〇二航空隊というのは、本土防衛を任務とし、撃墜戦果は120機といわれる。そのうち、B-29をなんと80余機も撃墜している我が国最強と言ってよい航空隊です。歴戦の勇者である。

このため、零戦は当時の連合国パイロットから「ゼロファイター」の名で恐れられた。ことに小園大佐の考案による「ななめ銃」は零戦の上に強力な銃を斜めにとりつけ、米空軍の誇る重量爆撃機B29に向い、死角である胴体の真下に入りこみ、胴腹を攻撃して墜落させる威力は米軍に多大な損害を与えていた。

昭和20年8月10日午前2時半、昭和天皇は御前会議において、「国家、民族のために、私がこれなりと信ずる所をもって、事を裁く」と仰せられ、「ポツダム宣言」を受諾した。これを聞き、小園司令は全員の顔を見渡し、隊員に総員集合を命じ、次のように訓示を行います。
--------------------------------------
降伏の勅命は、真の勅命ではない。
ついに軍統帥部は敵の軍門に降った。

日本政府はポツダム宣言を受諾した。
ゆらい皇軍には必勝の信念があって、降伏の文字はない。

よって敵司令官のもとに屈した降伏軍は、皇軍とみなすことはできない。
日本の軍隊は解体したものと認める。

ここにわれわれは部隊の独立を宣言し、徹底抗戦の火蓋を切る。
今後は各自の自由な意志によって、国土を防衛する新たな国民的自衛戦争に移ったわけである。
ゆえに諸君が小園と行動を共にするもしないも諸君の自由である。

小園と共にあくまで戦わんとする者はとどまれ。
しからざる者は自由に隊を離れて帰郷せよ。

自分は必勝を信じて最後まで戦う。
-------------------------------------------------------
他にも、

「赤魔の巧妙なる謀略に翻弄され、必勝の信念を失いたる重臣官僚共が、国民を欺瞞愚弄し、ついに千古未曾有の詔勅を拝するにいたれり。日本の天皇は絶対のお方であり、絶対降伏なし、我ら航空隊は絶対に必勝の確信あり。ポツダム宣言の履行命令に服するときは、天皇を滅し奉ることになり、大逆無道の不忠なり。今こそ一億総決起の秋なり」

と書いたビラを作り、15日厚木基地を発った戦闘機は東京上空から皇居、首相官邸等に大量に撒き、海軍航空隊は健在なりと示威飛行をしたんだ。

歴戦の勇者は何時の時も、激戦の現場を知らない大本営に不信感を募らせ、戦略の不備にあえぎながらそれでも必死に戦ってきた。

戦闘現場と本部の意識の隔たりは、国を思う忠誠な思いが、終戦を米軍等による謀略と捉え、天皇のお命を守らなくてはならない。との忠誠心の危惧が高まり、敗戦を受け難しとする 思いがあるのは当然であった。

厚木基地の反乱を一概に非難するには当たらないのではないか。
そんな時代背景があったのだ。