2016年8月13日土曜日

安藤明の足跡

転々として定職の無かった安藤は、子供が二人、荷役労働者のころに志していた運送業の将来性に着眼し、産業地帯として活気のあった東京の城南地区の蒲田に貸家を得て、自転車一台で運送業をはじめた。しかし、それは運送業と言うより御用聞きのようなもので、小口の運搬を 捜し歩く日々であった。

安藤の手記に、「けつが真っ赤にはれてきたが、痛さにまけずに・・・」
といって歩き回り、中には少しはまとまった仕事を得ると、知り合いの運送店に依頼して仕事をこなしていた。リヤカー一台すらない運送やなど誰も相手にしてくれないが、次第に人柄を買われ中古トラックを月賦で買って近くの産業道路に面した小さな車庫を店にして運送屋の一歩を印す。

ー大安運送店ー


大森の安藤だから、『大安運送店』と名乗った。
昭和14年(1939)安藤39歳の時である。住まいは小さな貸家で、田んぼの横にあり台風で洪水して大きな池のようになったことがよくあった。
支那事変から太平洋戦争に突入前の産業拡大時期であった。運送仕事も多くなってきた。
反面流通業の再編時代で、大手運送会社が中小の運送店を買収する運動が起こっていた。
運送業は大小にかかわらず縄張りがあって、そのための競争は多くの抗争事件へとなっていった。

「仕事の取り合いは日常茶飯事、強いが勝ちの男の世界だ」

「俺はな、喧嘩は一人で行くんだ。なまじ加勢があるとやりにくい」

「相手が10人いようと、近くの川の中へ一人ひとりほっぽり投げるんだ」

「命がけだった。子供のためだ。お父さんは強かったんだ」

「 威風堂々あたりを払うがごとき風格があったのだ」

と、自画自賛もはなはだしいが、子供に対して父の武勇伝がよく飛び交う。

そんな安藤の青年のころは叔父木下忠義の運送店の手伝いで17歳のころ北海道の岩内に移転した。

大自然に魅されて生き生きと青春を謳歌するのである。そこでの荷役仕事が安藤を鍛え、さっそうと裸馬にも乗って「人生で一番幸せだった」と振り返るのである。
帰京して新宿駅の荷役作業につき重労働が安藤の堅牢な体を作っていった。
この近在にある運送店60社ほどを団結させて城南運送株式会社を設立して初代の社長になり、大手運送業者と対決した。

安藤の豪腕と政治力が発揮されたのはこんな時期であった。
本業の運送業は急速に発展し、同じ産業道路沿いに二階建ての立派な事務所兼自宅を買い取り社名も、『大安組』と大きなカンバンが掲げられた。


大安組

周辺には作業所、トラック基地などの施設が出来、運送業のみならず土木工事や建築にも規模を拡大していった。
千束の豪邸を買ったのもこのころである。
世界はヨーロッパを中心に戦争の兆しが高まるころ、日本でも戦争気配のなか、産業拡大政策と共に戦争景気が高まっていく。
一種の戦需景気である。

運送は基幹産業を支える事業だけに仕事はいくらでもあった。
1939年6月、ドイツと英国の戦争が勃発し、第二次世界戦争へと入っていく。
日本は、12月8日、ハワイ真珠湾の奇襲攻撃からアメリカに宣戦布告。
世界戦争が始まる。

国内の戦争ムードはいやがうえにも高まりを見せていく。

そんな時期軍需景気にのっていよいよ事業はうなぎのぼりに拡大していく。
事業家として千載一隅のチャンスであった。