中山氏による執筆は、まことに精力的で、安藤の死後1年足らずに刊行されたことは、驚きであった。
中山氏の著作で有名な「馬喰一代」が映画化され、かつって私も鑑賞したが、親子の深い情熱が、青年の中山氏自身が進学の道を選び、北海道を後にするラストシーンで、涙ながらに最後にレールに耳をつけて去り行く息子の列車を慕う馬喰の父親が(三船敏郎)今でも鮮明に記憶している。
「にっぽん秘録」にある著者のあとがきの一部を紹介すると氏の辛苦が浮かび上がる。
『この執筆中にたえず強い風が書斎を襲った。私はこれを安藤の霊の叫びだとおもった。風雲児安藤はまだ今生に未練を残しているのではなかろか。
それは私的なことではなく日本の行く末を案じて、なお多くのことをやりたっかったのではなかろうか。・・・
晩年不遇のうちに暮らした川崎宿河原の安藤の居宅を訪ねた。二階建ての20坪ばかりの家は空き家になっていた。
ひどく粗末な建物で、いまにも崩れ落ちそうに傾いていた。・・・安藤の事蹟の執筆にあたって週間文春の英断があった。
発表するにあたって多くの危険を持っていた。はたしてこれだけの大事件が、事実であるかどうかということであった。
安藤の手記や側近者の談話を実証するために、編集者はかなりのエネルギーを費やした。
私は執筆中たびたび眼を病んだ。厖大な資料を読むことで、疲れきったのだ。重大な秘事なので一人で執筆した。・・
馬喰の子の私が馬車追いあがりの安藤明を描くのも、なにかの因縁であったか・・』
にっぽん秘録
表紙にはGHQの前に立ちはだかる男の大きい姿が描かれている。
このGHQは第一生命の本社ビルが接収されて使われていた。
焼野原の東京の中に焼けずに残ったのは皇居とわずかのビルであった。
このGHQビルはお堀を境にして皇居と向き合って立っている。
不思議なことに安藤がこの皇居とGHQの狭間に立って、運命の綾に導かれて夢中になり必死に工作して、天皇制の護持の実現にいささかなりとも尽力できたのは、結果的には至極幸運であったと言わなければない。
その後この「にっぽん秘録」の焼き直しや、2~3の著作があるが、私の著書もまたこのたびのブログもこの記録本によることが多い。
松本清張によるテレビドラマで「焼け跡のクリスマス」(昭和56年4月26日、テレビ朝日)の放映は、この「にっぽん秘録」を原作にしている。