2016年8月11日木曜日

厚木事件

事態を重く見た海軍省は、小園大佐を罷免し、実力行使をもって厚木航空隊を鎮圧する決断をする。そして横須賀陸戦隊の一個大隊に出動命令を出した。
8月18日、中戦車20両を、化学中隊は催涙弾を持って出動準備に入っていた。

一方高松宮殿下は直接小薗に電話され、
「ご聖断は大きな見地から成されたのだ。このご判断に我々は従わなくてはならない。すでに各軍隊は大御心を拝して武器を捨てた。この期に及んでまだ抗戦するつもりなのか。よくよく考えてみよ。いいな、分かったな」と説得された。

また大本営は全戦闘地区に対して、戦闘停止と復員命令を通達した。厚木も同様、各掌長を残して全員解散、即隊を離れて復員せよ」と命令を発した。

それをうけて小薗はやむを得ず基地の兵隊4500人にたいして復員の許可を与えてた。しかし捨て鉢になった小薗は、抗戦の本意は変わらず、各掌長と一部の同士を残し、最後の抵抗に打って出た。

「出て行けと言うなら黙って出るわけにはいかぬ。我々は最後まで残って日本人ここにありの気概を見せてやる」と、

一斉に戦闘機や爆撃機を滑走路に運び出し、燃料を抜き、タイヤをパンクさせ、プロペラを壊したりして放置させた。なんとその数250機である。

隣接する相模野基地、横須賀基地からも武器弾薬が略奪同様にして、厚木基地に集められた。当時の厚木基地の戦力を見ると、兵力は搭乗員をふくめて5500人。保有機1200機。食料、弾薬、燃料は2年分貯蔵できた。


昨日までは日本海軍最大の航空基地も、今は見る影も無く無残な飛行機の墓場と化してしまったのである。

滑走路は完全に閉鎖された状態になり、これが厚木事件の始まりとなった。