8月18日、中戦車20両を、化学中隊は催涙弾を持って出動準備に入っていた。
一方高松宮殿下は直接小薗に電話され、
「ご聖断は大きな見地から成されたのだ。このご判断に我々は従わなくてはならない。すでに各軍隊は大御心を拝して武器を捨てた。この期に及んでまだ抗戦するつもりなのか。よくよく考えてみよ。いいな、分かったな」と説得された。

それをうけて小薗はやむを得ず基地の兵隊4500人にたいして復員の許可を与えてた。しかし捨て鉢になった小薗は、抗戦の本意は変わらず、各掌長と一部の同士を残し、最後の抵抗に打って出た。
「出て行けと言うなら黙って出るわけにはいかぬ。我々は最後まで残って日本人ここにありの気概を見せてやる」と、
一斉に戦闘機や爆撃機を滑走路に運び出し、燃料を抜き、タイヤをパンクさせ、プロペラを壊したりして放置させた。なんとその数250機である。
隣接する相模野基地、横須賀基地からも武器弾薬が略奪同様にして、厚木基地に集められた。当時の厚木基地の戦力を見ると、兵力は搭乗員をふくめて5500人。保有機1200機。食料、弾薬、燃料は2年分貯蔵できた。
昨日までは日本海軍最大の航空基地も、今は見る影も無く無残な飛行機の墓場と化してしまったのである。
滑走路は完全に閉鎖された状態になり、これが厚木事件の始まりとなった。