2016年8月9日火曜日

会見後記


会見は11回も行はれ、マ元帥は、

「天皇との初対面以後、私はしばしば天皇の訪問をうけ、世界のほとんどの問題について話し合った。私はいつも、占領政策の背後のあるいろいろの理由を注意深く説明したが、
天皇は私の知るどの日本人よりも民主的な考え方をしっかり見につけていた。
天皇は日本の精神的復活に大きい役割を演じ、占領の成功は天皇の誠実な協力と影響力に負うところが極めて大きかった」

と回想している。

ここに豊下楢彦の著書「昭和天皇・マッカーサー会見」がある。
著者は当時の日本を取り巻く国際環境から、会見の真実性を追究して詳細に会見内容を検証し、天皇がとったマッカーサーとの頂上会談が第一級の政治行動であったことを評価している。

そして戦後、このままでは日本の防衛が危ういとして、日本の安全問題にまで触れ、
如何にして守るべきかマッカーサーに迫っていることを明らかにし、水面下での天皇外交の成果を示している。

さらに文中には多くのエピソードや談話を記述しているが、とりわけフェラーズ・メモを紹介しているが、

「天皇は、日本人の先祖の徳が宿る民族の生ける象徴である」
「天皇を戦争犯罪人として裁くことは、不敬であるあるばかりでなく、精神の自由の否定である」
「米軍の無血進駐と日本軍の武装解除に果たした天皇の役割を高く評価する」

とある。

安藤が出会った側近のフェラーズ将軍が、いかに親日派であり元帥への強い影響力を感じるのである。

偶然とはいえ、安藤明が会ったこの将軍が、元帥へ影響を与える最適任者であったのだと驚いた。
又文中に出てくる「天皇による無血進駐」が多大に評価されている表現を見るにつけ、
もし厚木事件が無事に解決していなかったら、天皇制護持のシナリオが根底から崩れてしまっていたと、背筋の寒くなるのを禁じえない。

安藤の活躍も厚木事件の成果にしろ、これらの結果が明らかになるにつけ、生前の安藤は知ることはなかったのだ。

晩年、凋落した悲惨な家庭生活の反動として遺族である私たちは、父の業績を余計なことをしてしまって・・と愚痴をこぼしたものだった。

そんな父が手記を克明に残した理由は、子供たちには真実を知ってもらいたいという、
親としての切ない願いがうかがえた。

安藤明の業績の結果が明らかになるにつけ、新生日本の黎明にきらめくダイヤモンドのように、さんぜんと輝いてくる成果であった。
「よくやったね」という賛嘆でもある。

「親父は、戦後の120日間のために生きたんだな」とよく言われるが、
8月15日天皇による終戦の詔勅の後、
8月25日から始まった厚木事件、一ヶ月後には「天皇とマッカッサーの会見」
これから紹介する12月25日の「クリスマスパーティ」までのことなのだ。

歴史家や、学者は天皇制の護持は、「マッカッサーが天皇の無私な徳に感動して決定された」というが、
事態はそんな簡単なものではなく、新憲法の制定、東京裁判での判決過程を経て確立していくが、とりわけ安藤が陰で活躍する秘策が功を奏するのである。