吉田茂元総理の「回想10年」吉田茂著、当時外務大臣の立場で、以下のように述べている。
「当時私は外務大臣になったばかりの頃、元帥にお会いしたいといわれる陛下のご内意を聞かされた私は、随分いろいろ考えてが、やはりお会いしたほうがよいと思って、その旨を元帥に伝えてみた。すると元帥も大賛成で陛下がお出になれば、何時でも喜んでお会いしたいということであった。・・・」
一方マッカーサー元帥の「回想録」から見ると、
「私は東京に着いて間もない頃、私の幕僚たちは、権力を示すため天皇を総司令部に招き寄せてはどうか、と私に強くすすめた。私はそういった申し出をしりぞけ、彼らに言ったのだ。そんなことをすれば、日本の国民感情をふみにじり、天皇を国民の目に殉教者にしたてることになる。いや私は待とう。そのうちには、天皇が自発的に私に会いに来るだろう。今の場合は、西洋のせっかちよりは、東洋のしんぼう強さのほうが、われわれの目的一番かなっている」
と言われたのだ。
(殉教者とは宗教のために身命を投げ捨てる人)
続けて元帥は
「実際に、天皇は間もなく会見を求めてこられた」と書いてある。
両国を代表する元帥と吉田外相の話しで会見前の客観的状況が、読者にお分かりいただけると思う。
会見の真相は安藤がこの演出をしたのである。
そこで一人の証言を紹介する。
第63代、佐藤栄作元総理大臣は、
「安藤君との付き合いは、私が自動車局長のころからだ。彼はまことに豪快な人物で、私とは大いに意気投合し、時には喧嘩をした仲である。あの歴史的な”天皇とマ元帥の会見”
これを実現させたのは、まさしく安藤君一人が心血をそそいで奔走したからである。・・」
(平成二十四年五月12日読売新聞朝刊で”佐藤栄作7年8ヶ月”と題して彼の総理としての業績がくわしく紹介されている。歴代総理在任最長の佐藤は、沖縄返還を実現させたことで有名である。池田勇人総理の後を受けて昭和39(1964年)総理に就任した)
佐藤総理には安藤の葬儀委員長をしていただき、一周忌は盛大に東京虎ノ門の消防会館で行はれ、安藤の業績を称えていただいた。
ことのついでに紹介しておくが、元衆議院議員、元通商産業大臣、運輸大臣の佐藤信二氏は佐藤元総理のご次男である。
息子安藤真吾は本人にお会いして以下の言葉を頂いた。
「著者安藤眞吾君とは大學の同級生である。この度、父佐藤栄作が”天皇とマッカーサー元帥の会見”が安藤明氏の功績であると証言したことを、本書に掲載したいと言ってきた。私は”安藤明氏は国士である”との言葉を添えてよろこんで承諾した」
(平成19、2007年、拙著発刊に際して)
佐藤元総理と安藤の間柄は、戦中、戦後、安藤が全国自動車組合の会長をしていた頃、希少なガソリンの配給をめぐり、自動車局長の彼との交流が深まり、公私に親密な関係となっていった。安藤は次期総理の器と佐藤氏を高く買い、栄作、栄作と親しみを表現していた。