2016年8月10日水曜日

歴史的会見

この歴史的会見は、昭和20年(1945)9月27日、アメリカ大使館で行われた。
実GHQから会見に先立ち陛下はお忍びで来てもらいとの強い要請があった。

宮内庁は陛下の警護が出来ないと動揺したが、要請にしたがってパトカーの先導なしで皇居を出られ、御用車に陛下と藤田侍従長が、あとの車に石渡宮相、徳大事侍従、村山侍医、奥村通訳などが続き、一般車と同様に信号待ちをされながら虎ノ門のアメリカ大使館に着かれた。

警護のない異例の行幸はこれが初めてであろう。歴史家の半藤一利氏によれば、陛下の運転手の回想が記載されている。乗客は高級な御用車を見て中を眺め、ハッとして敬礼していた人もいました。なるべく都電に近寄らないように注意しました。お上は視線は横を見ておられましたが、お顔は正面を向いて無言でした」とある。

陛下がこの後、いかに勇気ある決断と行動をなさった。それが分かるにつけて、
この車中のご心中を察するには余りあるものがある。

アメリカ大使館の玄関の前には、フェラーズ将軍とパワーズ少佐が出迎えた。

天皇と元帥の会見後の日米の報道は、アメリカ、ニューヨーク・タイムズ紙(1945,10、2)によると、

天皇は、
「マッカーサー元帥が占領時、一件の事故もなく占領が遂行されたことに感謝する」
と述べると、
元帥は、

「円滑な占領は、天皇のリーダーシップのお陰であり、いかなる流血ももたらさなっかたことについて感謝する」

と述べた。

さらに両者は、日本本土への武力侵攻が行われていたならば、日米双方に多大な人的損失と、日本の完全なる破壊がもたらされていただろうという点で、意見が完全に一致した。

厚木の反乱が表面化されずに済んだことが重大な視点となっていると考える。

一方日本側は、陛下は戦争の開始について
「自分としては極力開戦を避けたいと考えでありましたが、戦争になってしまった結果を見たことは、自分の最も遺憾とするところであります」と述べられた。

これに対してマッカーサー元帥は、陛下の立場を理解した上で、

「おそらく最後の判断は後世の歴史家および世論によってくだされるのを、待つほかはないでありましょう」

と述べられた。

当時の公式報道としては突き詰めた議論がされたことを避け、当たり障りのない内容にされたのである。

しかし事実は極度に緊迫した両者の会談内容が次第に明らかになってい来るのである。
新生日本の原点に陛下の不惜身命のご配慮が明らかになってくる。