2016年8月12日金曜日

緑十字機

進駐軍が厚木へ上陸するまでにも、ひとつのドラマがあった。

昭和20年(1945年)8月15日大日本帝国は、ポツダム宣言を受諾した。
8月16日アメリカ政府より、日本軍の正式降伏受理のために打ち合わせをする権限を
有する使者をマニラ(フィリピン)のマッカ-サ-連合国最高司令部のもとに出頭させよ
との通告が届いた。
 

イメージ 1用意された一式陸上攻撃機2機は、2機ともすべて真白に塗装され日の丸も消され日の丸
のあった位置に緑十字をいれた。これは、米軍に撃墜されない様に指定されたものだ。

白い軍用機(一式陸上攻撃機)胴体と主翼とそれに尾翼に緑十字を大きく書いて木更津軍用空港を発った。その数2機。ここに当時講和の使者の代表に選ばれた河辺虎四郎中将の回想録があり、それにに詳しく書かれている。

この写真で白い軍用機が2台あるのが分かる。一台は「おとり」で、米軍の指示でこの異様な軍用機となった。ここでの敵は米軍ではなく日本の戦闘機だ。


河辺団長一行16人は厚木基地での抗争している日本軍の攻撃を如何にして避けるか。
厚木の抗争がここでも暗い影を投げかけている。

抗争組との話し合いが出来るわけがない。彼らもまた国のためと言う忠誠心の発露を、徹底抗争という形で必死になって孤軍奮闘している。
昨日まで「一億総玉砕」と国民をあおっていたのは日本軍政府なのだ。

米軍に日本国は壊滅させらるかもしれない、天皇は殺される。
この危機感があった。この憂国の思いを誰が否定だろう。

戦争は天皇陛下の詔勅で終わるべき時期に、味方の中に反乱軍がいて、敵よりも危険な怖い存在になっているんだ。
厚木は日本最大の海軍航空隊だ。ゼロ戦で戦った勇者がいる。

そんなわけで、おとりは、本土沿いに南下、本機は伊豆七島をはるかに回遊して一路沖縄の伊江島基地に向かったんだ。
何時攻撃されても覚悟の上とはいえ無事に米軍基地となっている沖縄の伊江島に到着。屈辱の思いの中、米軍機に乗り換えてフイリッピンのマニラ基地に到着。

翌日20日。米軍代表との談判とは、戦勝国だからこそ無理なことを言うのは当然だけれど、なんと

1.進駐基地は、厚木。
2.進駐時期は8月26日に先遣隊が、続いてマ元帥は28日。
3.講和の調印は31日
と、日本側は基地の変更と、到着時期の延期を強く訴えたが、聞き入れられず押し切られてしまう。

特使の一行の帰路は飛来して来たとき同じく、伊江島にて白い軍用機に乗り換えて一路東京へ。

国家の存亡を担った一行は緊張のマニラ滞在を終え、本土を東京に向け北上中に思わぬ事故に遭遇する。
搭乗機がエンジントラブルで不時着となった。
この非常事態によって、特使は失敗に帰すことにもなるかもしれない。
優秀な操縦士は奇跡的に不時着の成功をやり遂げた。
遠州灘の海岸近くの海面から着水し、機体は浅瀬の砂浜に無事着陸したんだ。奇跡だ。

幸い特使は、翌21日、浜松飛行場から別の戦闘機で飛行して東京の調布飛行場に到着し、川辺特使は直ちに総理官邸で任務の報告、陛下に拝謁して使命の上奏を済ました。
きわどい決死の任務は無事完了した。

しかしである。特使が受取ってきた米軍の厳しい条件の実行は不可能に近いものであって、厚木基地進駐までは、6日間しかない。

これからが、厚木反乱事件の顛末が待っているのである。
無血進駐実現に向かって。