当時、ワシントンはトルーマン大統領が日本の占領政策に関して、各連合国への配慮もあって、非常に流動的な状況にあった。
日本に勝利したアメリカ連合軍司令長官マッカーサー元帥は、アメリカ本土では英雄として国民の賛嘆を一身に受けていた。ましてや日本占領の経過が、日本本土決戦にならずに無血進駐が実現できた事にたいして、高い評価をしていた。
しかしワシントンでは元帥の役目は、日本への侵攻と占領が実現できた時点までで、
ここで彼の役目は終了したとして、アチソン国務大臣が次のような声明をだした。
「占領軍はあくまでも政策の道具であって、政策の決定者ではない」
戦闘の最高司令官であっても、日本の占領政策の為政者ではない。
そこへGHQが宮城前の第一生命ビルに本拠を移した1945年9月17日に出された
マ元帥の声明文が大問題をもたらしたのである。要約すると、
(円滑な占領政策の進行を計る過程で、駐留軍の削減を打ち出し、40万人を20万人に減らす)という内容であった。
ワシントンでは寝耳に水でったとして突然の声明に困惑し、マ元帥に一時帰国命令を出した。元帥はこれを拒否、しかし大統領は今後の占領政策を彼に独断専行させまいと、
10月19日(天皇との会見前)帰国命令を出すが、
「日本の管理に関する政策は、ワシントンよりも東京において形成されるべきである」
として拒否。
これはシビリアンコントロールを主眼とするアメリカの基本問題に関し、ワシントンとマ元帥のダブル・スタンダードであるとして、両者の間で永い抗争に発展していくのである。
凱旋将軍としてマ元帥は次期大統領候補ともうわさされるなか、天皇問題をめぐる
日本の複雑な状況に扮装し情熱を注ぐのである。
戦争が継続されている中、突然の終戦宣言に驚いたのは日本軍のみならず、
連合軍もワシントンも勝利に酔うどころか、占領政策の推進は至難な状況だったと推測される。
この状況に危惧したワシントンは急遽、「極東委員会」を設置して(同年12月)
マ元帥の監視役と政策の為政者として派遣されることが内定した。
とりわけマッカーサーがこの委員会の派遣前に、天皇問題の解決と憲法改正に向って切迫した状況になっていくのである。