2016年8月10日水曜日

厚木基地無血進駐実現

マッカッサーが到着するまでの緊迫した日米の思惑と経過があった。
この一触即発の危機が、如何にして避けられたのか、その舞台裏にせまっていく。

本題に入る前に、基地に到着した米軍の先遣隊の状況を見てみよう。
基地受入れの特使の将校からの話によると、

渦中の人は、海軍大佐、佐藤六郎氏がその特務を果たすため、昭和20年8月28日(当初の予定日26日は台風で延期)整備された滑走路で受入れの準備も出来て、到着を待っていた。

この日の風向きから予想される飛行機のランディング(着陸)にあわせて、臨時のテントを敷いて待機していた。

午前7時30分、四発エンジンのC46輸送機が13機、厚木上空に巨大な姿を現わした。やがて滑降体勢に入り、驚いた。

見ると風下に向かって次々と滑降し滑走路の向こう端に機首をこちらに向けて止まった。飛行機は通常、離着陸の時には風上に向かって行うものなのだ。
佐藤大佐は、

「ちきしょう!やつらは俺たちの攻撃に備えて、離陸体制を敷いていやがる」
あわってて車に白旗を掲げて彼らの飛行機に向かった。

見ると、数人の兵士がすばやく飛行機から降りて自動小銃をこちらに構えている。
近ずくと、どの目も殺気立ってこちらをにらんでいる。

「俺たちもびくびくもんだが、あいつらを見ろよ。小銃がぶるぶる震えているぞ」
やがて我々が空手あるのを確認して、司令官らがタラップからそろそろ降りてきた。

全滅を覚悟で派遣された第一陣の司令官は長身で精悍な面構えのチャールス・テンチ大佐である。
しばし沈黙が続き、佐藤大佐の指図で滑走路の反対側にあるテントへと案内した。
テンチ大佐以下数人は迎えの車に便乗し、テントに入ってきた。
我々の歓迎の姿勢が次第にわかって到着確認の書類を交換し、今後の連合軍本体の受入れについて協議を開始した。

この進駐作戦の間、相模湾からは150の上陸用舟艇に13000人の海兵隊が上陸し、戸塚の横鎮基地に集結し、横須賀に向かった。
B29全機が米軍基地から、東京始め日本の主要都市へ爆撃準備をしていた。

2日後、8月30日、マ元帥は到着後直ちに横浜に向い、グランドホテルに臨時の本部を置き占領政策の開始となるのである。

この世紀の無血進駐は世界に広く速報された。

「狐につままれたように」と言わしめた「なぞ」のような無風状態での進駐であった。
無血進駐と言う予想外の結果は後に日本占領政策に重大な成果を持ちきたしていくのである。

武将マ元帥の賭けは外れたと言っていいだろう。

武力進駐となれば高圧的に有利に占領政策を進められると考えていたとしても不思議ではない。無血進駐を実現させた「なぞ」の背景はなにがあったのか。

ここに二人の人物を登場させることになる。
ひとりは、先に述べた佐藤六郎海軍大佐。

そうしてもう一人は、大安組社長安藤明だったのだ。