2016年8月1日月曜日

「焼け跡のクリスマス」(昭和56年4月26日、テレビ朝日)

熱烈な天皇主義者であった安藤明(新克利)は、1945年、敗戦後の混乱の中で、運送業などで次々と富を得て、成り上がる。やがて、料亭に米軍高官を呼び、天皇制維持の演説を日々行うようになっていった。だが、ささいな罪で逮捕された安藤は、みるみる没落…。そして失意のうちにこの世を去っていった。日本のアル・カポネといわれた安藤明の生き様を描く。【以上、テレパル1984/04/21号より引用】

テレビドラマデータベース


昭和56年(1961)4月26日。テレビ朝日は「焼け跡のクリスマス」と題して2週に亘って安藤のことを放映した。これは松本清張監修によるものである。

「世の中にこの男を知る人は少ないであろう」と前置きして、
厚木事件から始まって大安クラブでの米軍将校を懐柔した疑惑の秘話を天下に知らせた。

ドラマのおわりにあたって松本清張は、

「かくして安藤の功績もあって、マッカーサーが天皇制を存続させる代わりに、憲法第9条の戦争放棄を押し付けて、日本が再び軍事強国とならないための、いわばさし違いの条項である」とも発言している。

昭和20年といえば終戦の跡生々しい東京が焼け野原の時であり、そんな「亡国の淵」に立っていた時期にアメリカ軍高官を招待して豪華に、クリスマスパーティを開くのである。

昭和20年10月に、フィッシャー大尉から「天皇が起訴されそうだ」との情報が飛び込んでくる。

「天皇問題に直接関係する専門係官を呼び出してあげるから、そこで天皇制護持を訴えてみよう。至急そのための接待場所を設けて欲しい。そのうちに米軍人が日本人宅や料亭での酒食の供応はうけられなくなる」
といってきた。

そこで急遽料亭を買収して大安クラブが設営された。

そこへフィッシャー大尉に連れられてある大佐が、アメリカでの世論調査の係数表を持参して、天皇処刑が70%にも達しているとして、すくなくとも天皇が追放される事を示唆された。

事態の危機を感じた安藤は、松前と高松宮を訪問してこの事のお伺いを立てた。
宮殿下も

「私たちは、たとえどうなっても構わないから、兄君陛下だけは救って欲しい」
と申され

「我々は殿下のご心情を察し、深く決意を固めて引き下がった」

と安藤は言うのである。

松前とは更なる秘策を練り、
「安藤君。私も出来るだけ援助するから、頑張ってくれ」といわれる。

安藤の歓待攻勢はますますエスカレートして、フィッシャー大尉はGHQの高官を次々と呼び寄せて大判振る舞いをするのである。

クラブに来た高官は、ダイク代将、フェラーズ将軍、ホイットニー将軍、ケージス大佐、バンカー准将、フェーリン憲兵司令官など、それに東京裁判の主席検事キーナンも客であった。

大安クラブ正面
大安クラブ正面

マーク・ゲインの「ニッポン日記」には、大安クラブについて以下のように記載がある;

「私が安藤明のことを耳にしたのは、1946年(昭和21)2月、米軍諜報部隊のある大尉からだった。あの男から目を離さないようにしろ、彼は暗黒街とつながりをもっている。だが同時にまた、日本の皇族やマッカーサー司令部の将軍たちとも近づきになっている大物なんだ。

私の聞いたところでは、アメリカの将校たちが、安藤が「大安クラブ」と呼んでいた一流の施設にしばしば歓待を受けていた。このクラブは営利を目的にしたものではなく、料理も酒も女もすべてクラブ持ちのもてなしだった。

安藤は同時に多くの宴会を掛け持っていて、主人役をつとっめていた。
安藤は客人たちに、自分は日米親善の献身的な信奉者だと説明するそうだ。
これは明らかに、日本側のぬかりなく組織された謀略の物語である。(ゲインの誤解)
その武器は、酒、女、歓待であり、その目的は占領軍の士気を破壊することにある」

そのマークゲインは安藤を会社に訪ねた。
社長室で会った安藤の印象を、

「安藤は、がっしりした体つき、一部の隙もない身なり、自信にあふれたる堂々とした白髪頭の男である」

さらに案内されたクラブでは、

「内部の様子はかねて聞いていた通りだった。部屋は広いし、調度品も申し分ないし、その上接待に当たる一団の女性はいずれも若くて美しく、その手には安藤から贈られたダイヤモンドの指輪が光っていた」

「女たちが料理を運んできた。エビフライはまるで口の中でとろけるようだった。
子牛の焼肉、ヒナ鳥のぶどう酒漬け、新鮮な刺身、漬物などの日本料理。
どれも私が日本で味わったことのない最高のものだった」

「安藤が6週間で4百万円を使ったという報告を、私はようやく理解しかけてきた」
「日本の人形といったありったけの贈り物。その人形は全部まさしく生きていた」
と記者らしい鋭い観察眼で表現している。

この時は、マークゲインが安藤を悪の枢軸とか、日本のアルカポネともとんでもない誤解したのであった。

しかし彼が安藤の死後、1966年(昭和55)再来日して、安藤の大安クラブでの歓待は日本政府の一機関ではなく、安藤個人の慈善行為であった事実を知り、その誤解を解くと共に、金科玉条のよう清廉潔白な偉業であったと分かったのである。
それに投獄から続く晩年は悲惨な生涯を閉じたと聞き、

「彼が、わが世を謳歌した栄光の日々は、跡形も無く消え去り、私は悲しいかった。
なぜなら、降伏に先立つパニック状態の数ヶ月とそれに続く終戦直後の時期に、東京で起こったことを記録しようとした歴史家が未だにいないからである・・」と
安藤に惜別の念を贈ると共に賛美をしてくれた。

そんな安藤の「わが世を謳歌した栄光の日々」にゲインにも知られていない舞台が、終戦の年12月25日に開かれたのである。