2016年8月6日土曜日

昭和の鹿鳴館 大安クラブ創設


このような背景の中、安藤は、天皇を守り戦後の日本を守るべく、昭和の鹿鳴館とも呼ばれた、大安クラブを設立し、アメリカ高官の接待クラブでの破天荒な活動が始まるのである。

大安クラブ正面天皇の起訴をめぐる諸外国の厳しい要求が高まる中、フィッシャー大尉は安藤と連日に渡りGHQの動きを察知して、なにか秘策はないものかと協議を重ねていた。

「天皇問題に直接関係するセクションの専門武官を呼び出してあげるから、そこで天皇制護持を訴えてみよう。マ元帥の取り巻きから崩すのが肝要だ」
フィッシャー大尉の助言である。


大安クラブ正面


「至急そのための接待場所を設けて欲しい。そのうち米軍人が日本人による酒食の供応は出来なくなる」

安藤は松前総裁や相談役の津雲国利(東京青梅の殿様と言われる国会議員)等とも相談してある料亭を買収する。

東京銀座の奥座敷は築地の魚河岸市場からの新鮮な魚貝類の入手可能な地域で、幾つかの料亭が軒を並べる。築地郵便局の裏にある静かな通に面した「分けとんぼ」という300坪ほどの木造の料亭だ。

ここを松前の口沿いで当時30万円で購入した。

「天皇とマ元帥の会見」(9月27日)が済んで間もなく、10月始めアメリカ式クラブとして米軍人専門の会員制クラブが発足するのである。

それが「大安クラブ」である。

フィ大尉と関係者
フィ大尉と関係者
部屋数は大小20あまり、室内は外人好みの調度品で飾り、女将として安藤が懇意にしていた大森のある料亭の女中頭をしていた北村トクを呼び寄せた。

「この玄関脇が私の部屋で、大広間があって、離れがあって、奥の広間には20人ほどの女が寝起きをしてました。一番奥の部屋は15畳ほどあって社長の居間でした。」

「社長がこの奥の間で外人と話しをするのですが、私は次の間に控えていていましたから、どんな話しがあったかは分かりません」

トクは忘れもしない当時を鮮明に覚えていて、
「とにかく茶碗一つ、お皿一枚から集め始めました。三越、松坂屋などの古道具売り場に通い高級品を買い揃えました。女の子を集めるのも当時松坂屋の地下にダンスホールがあり、外人好みのいい娘を引き抜いたのです。
社長からはいくら金が掛かってもいいから、背の高い別ぴんを揃えろ、と言われました。
芸者からお女郎上がりの娘も加え30人ぐりになりました」
と話してくれた。

「開店までに一ヶ月ほどかかりました。女の子の中にはシラミ退治から始めました。
派手な模様の振袖を着せてようやく開店にこぎつけました」

フ大尉は毎日GHQの高官を招待し、多いときは2、30人にもなったという。
「だれかれ見境がつかなくなっていても、客からは一切お代をいただかず、中には女の子と寝る人もおりました。おまけに土産まで貰って夜遅く帰っていかれました」

「社長は客の肩書きや接待の意味をうちあけてはくれませんでした。すべてが秘密でした。何のためにこんな豪華な接待をするのか分かりません。
私は毎日プレゼントを買うために銀座のデパートや店をあさり、どのくらいお金を使ったか分かりません。プレゼントの費用だけでも当時のお金で1000万円はつかっているんではないですか」

かくして大安クラブは誕生した。
大安クラブ正面と、多くのアメリカ軍人の名刺

そこで繰り広げられる親善外交の中で、ある秘密会議が行われた。

安藤の手記によると、その秘密会議は、GHQからの情報として、
「ソ連の主張は、あくまでも天皇を退位させ戦犯として裁判を要求、国際法違反の細菌兵器使用の責任を、人道上許せないとすこぶる強硬である。それに対する試案として、天皇を形式的にでも追放する意見が態勢をしめている」と言う。

安藤がそれは困る。と応酬すると、
「逮捕されて刑務所へ送られるよりは良いではないか」
といってアメリカの世論調査の記事を見せてくれた。

安藤はその時の情勢について、
「当時の米軍は、天皇問題とともに、無血進駐の継続と、日本の治安維持が最大の問題であるとした状況に狼狽し、さらなる秘策を練るのである」と。

そして、昭和20年(1945)終戦の年の12月25日に大安クラブで盛大なクリスマスパーティーを開き、GHQ高官を招待して、一世一代の大芝居を打つのである。