高松宮殿下は戦争末期のころ、民間の情報をつぶさに得たいと、当時、高等技官として優秀な松前を呼ばれ、戦況などについて下問されていた。 戦後になると宮は、天皇制の存続の是非を問う議論がごうごうと鳴り始まり、天皇を戦犯として処刑すべしという動きが高まるってきた。
広島、長崎を襲ったあの惨害の後、直ちに調査団が結成され、松前が団長となる。
現地を視察してこれが原子爆弾であるとの確信を得て、宮にご報告された。
宮はアメリカ軍の情報を知りたいと松前に下問した。
松前は、安藤がアメリカ軍の最新情報を得ていたのを知り、宮に直接紹介することになってきた。
昭和20年9月6日
安藤は松前に連れられて、モーニング姿に威儀を正し、芝の高台にある宮邸を訪問したのである。
「博士からくれぐれも言葉に注意するようにといわれたが、労働者上がりの自分にとってはいささか閉口した」
父にしてみれば子供たちにこの栄誉を知らせたものだった。
「宮様にお目にかかったのは、海軍省の会議室でした。そのときは宮様とも知らず大変失礼をいたいしました」
頭をかいて挨拶するのを見て、宮様も思い出されて笑っておられたという。
妃殿下ご同席され、日本料理とワインおを頂くうちに次第に言葉が過ぎて、松前が注意をすると
「いいよいいよ。面白いから話をもっと聞きたい」
とおっしゃったそうである。
「ところで安藤、お前のことは松前から聞いている。GHQ(General head Quarters)との連絡がとれるそうだが、どうだろう・・様子を聞いてくれまいか。私たちはどうなろうと構わないが、しかし陛下は・・兄君だけは・・・」
言いかけて宮様は絶句され、しばらくして、
「陛下は本当にいい方なのだ。それなのにまたひどい目にお逢いになる・・安藤!なんとか陛下をお助け申し上げてくれ」
とおっしゃたのである。
安藤はそのときの感慨を、
「殿下のお言葉はあまりにも突然であったため、私は胸が張り裂ける思いで、気持ちの動揺を抑え切れず、涙が出てとまらなっかた」
と語った。
安藤が半信半疑で聞いていた親さまの言った、
「天皇様のために働くのだ」
というお告げは、もはや疑う余地がなくなった。
安藤に火がついた。
頭の中は天皇制護持一辺倒となっていくのである。
一介の運送屋が、事もあろうに高松宮殿下のご下命をうけ、天にも舞い上がる気持ちでこれから一心不乱に全身全霊を尽くすことになるのである。
厚木事件に巻き込まれたが、これは事業と考えればはなはだ僥倖であったろう。法外の報酬もいただけた。
しかしこれから始まるすさまじい展開は、損得を離れ、ひたすらに無私の安藤だから出きた破天荒の裏技であったし神業であった。
(正直、私を始め遺族は、厚木事件だけでよかったのにと、思ったこともあったが、父は男として世界一のロマンを成した遂げたんだと、想いを切り替えている)