2016年8月15日月曜日

安藤 明

                     
安藤明とは
安藤明とは 
天皇・マッカーサー会見
天皇・マッカーサー会見
厚木事件
厚木事件 

安藤明(1901年/明治34年2月15日~1962年/昭和37年8月15日)は、戦後日本の繁栄の基礎を築いた功労者で、人間として大きな犠牲の精神という徳を持った模範的人物です。天性のビジネスセンスを持ち勝気で不屈の精神を持ち、運送業・建設業で大成功をおさめ、その財力を持ちいろいろな形でアメリカ占領軍GHQと個人として交渉し、マッカーサー来日の際の決死の厚木飛行場準備、天皇とマッカーサ-会見の実現、等を通し戦後日本の繁栄の基盤をつくりました。

このブログでは、そのような安藤明の知られざる活躍・功績・日常などを、安藤ファミリーが紹介して行きます。安藤明長男にあたる安藤真吾のブログやその他出版物からの引用を用いて、これからも少しずつ情報をアップしていきます。よろしくお願いします。

YOUTUBE /フィクサー列伝 安藤明

安藤明に関するお問合せは:
andoshingo23@gmail.com (父安藤真吾)
andotoshi23@gmail.com(寿英)までお願いします。

2016年8月14日日曜日

「ザ・スクープスペシャル 終戦企画」 緑十字機 決死の飛行



2016年8月14日(日)14時~15時30分
「ザ・スクープスペシャル 終戦企画」
太平洋戦争 最後のミッション
緑十字機 決死の飛行
-誰も知らない 空白の7日間ー


YOUTUBE「緑十字機 決死の飛行」
真の終戦に導いた“太平洋戦争ラストミッション”、それは戦争を1日も早く終結させるための生きて帰る保証が全くない旅。“平和の白い鳩”緑十字機の決死の飛行だった。
しかし、日本の未来を託された緑十字機は、連合国との交渉後、その帰路で謎の不時着を遂げる。一体なぜ、国家存亡の危機に直結する、このハプニングは起こったのか?

日本政府からもGHQからも公表されず、国民の誰も知らなかった空白の7日間に一体何が?戦後日本の命運を分けた運命の飛行機は、今も鮫島海岸沖で静かに眠っている。

安藤明、厚木飛行場撤去作業について紹介:1:03分頃

一介の運送屋が、事もあろうに高松宮の命をうけ、一心不乱に全身全霊を尽くす

高松宮殿下は戦争末期のころ、民間の情報をつぶさに得たいと、当時、高等技官として優秀な松前を呼ばれ、戦況などについて下問されていた。 戦後になると宮は、天皇制の存続の是非を問う議論がごうごうと鳴り始まり、天皇を戦犯として処刑すべしという動きが高まるってきた。










広島、長崎を襲ったあの惨害の後、直ちに調査団が結成され、松前が団長となる。

現地を視察してこれが原子爆弾であるとの確信を得て、宮にご報告された。

宮はアメリカ軍の情報を知りたいと松前に下問した。
松前は、安藤がアメリカ軍の最新情報を得ていたのを知り、宮に直接紹介することになってきた。

昭和20年9月6日
安藤は松前に連れられて、モーニング姿に威儀を正し、芝の高台にある宮邸を訪問したのである。

「博士からくれぐれも言葉に注意するようにといわれたが、労働者上がりの自分にとってはいささか閉口した」

父にしてみれば子供たちにこの栄誉を知らせたものだった。

「宮様にお目にかかったのは、海軍省の会議室でした。そのときは宮様とも知らず大変失礼をいたいしました」

頭をかいて挨拶するのを見て、宮様も思い出されて笑っておられたという。
妃殿下ご同席され、日本料理とワインおを頂くうちに次第に言葉が過ぎて、松前が注意をすると

「いいよいいよ。面白いから話をもっと聞きたい」

とおっしゃったそうである。

「ところで安藤、お前のことは松前から聞いている。GHQ(General head Quarters)との連絡がとれるそうだが、どうだろう・・様子を聞いてくれまいか。私たちはどうなろうと構わないが、しかし陛下は・・兄君だけは・・・」

言いかけて宮様は絶句され、しばらくして、

「陛下は本当にいい方なのだ。それなのにまたひどい目にお逢いになる・・安藤!なんとか陛下をお助け申し上げてくれ」

とおっしゃたのである。

安藤はそのときの感慨を、

「殿下のお言葉はあまりにも突然であったため、私は胸が張り裂ける思いで、気持ちの動揺を抑え切れず、涙が出てとまらなっかた」

と語った。

安藤が半信半疑で聞いていた親さまの言った、

「天皇様のために働くのだ」

というお告げは、もはや疑う余地がなくなった。

安藤に火がついた。
頭の中は天皇制護持一辺倒となっていくのである。

一介の運送屋が、事もあろうに高松宮殿下のご下命をうけ、天にも舞い上がる気持ちでこれから一心不乱に全身全霊を尽くすことになるのである。

厚木事件に巻き込まれたが、これは事業と考えればはなはだ僥倖であったろう。法外の報酬もいただけた。

しかしこれから始まるすさまじい展開は、損得を離れ、ひたすらに無私の安藤だから出きた破天荒の裏技であったし神業であった。

(正直、私を始め遺族は、厚木事件だけでよかったのにと、思ったこともあったが、父は男として世界一のロマンを成した遂げたんだと、想いを切り替えている)

奇縁再び バーナード・フイッシャー大尉との出会い

大安組の本社は西銀座の新橋に近い土橋を渡り数寄屋橋に向って3軒目にある。当時では3階建てのモダンなビルであった。
以来、安藤の心は親さまの言ったアメリカ軍人とはどうすれば見つけられるのか無性に気なっていた。

小雨降る日、安藤が社長室からおりて玄関先に出ると、折から二人の将校風の軍人が歩いてきた。小雨の中を早足に通り過ぎそうになるのを、とっさに
「ハロー」と声をかけた。
「はい、こんいちは」と日本語が返ってくる。

「おやーあなたは日本語が出きるんですか」と傘を差し出し近づくと、
「はい、できるよ」と言う。安藤はびっくりしながら、
「雨ですから少し休んでいきませんか」
しばらく二人は話し込んでいたが
「どうぞ、どうぞ」と手招きすると、
「いいよ」と安藤の誘いに応じてくれたのだ。

三階の社長室に通すと豪華な応接セットを中央にして、通りに面して安藤のデスクがある
「どうぞ、お掛けくださいウエルカム。私はアメリカ軍を歓迎します」
安藤は自己紹介をしてから、
「あなたの名前はーー」と、尋ねると
一人の軍人は、

「私の名前はバーナード フイッシャー大尉と言います。日本語のお魚屋さんです」と笑いながら言うのである。

フィッシャー大尉もう一人を指差し、「彼はベヤー・ストック大尉です」と紹介する。
「やー、そうですか。魚屋さんですか。これは分かりやすいですねー」と安藤もうれしそうに笑って答えた。
秘書が驚きを隠しながらお茶を運んできて三人は次第にくつろぎ、フィッシャー大尉に、

「ところでどうして日本語がそんなにうまいのですか」と訪ねると

「私はアメリカの大学で日本語を勉強しました」
「それはすばらしい、それで日本に来ることになったのですね」と言うと、

「ええそうです。ところがフィリッピンにいる上官とうまくいかず、危なくドイツに回されそうになりました。それでは何のために日本語を勉強してきたか分からない。それならアメリカへ帰るといって、マッカーサー元帥を困らせました」

「えーあなたはマッカーサー元帥と親しいのですか!?」

安藤はひざを前に突き出し、胸の高まるのを押さえながらたずねた。

「私の父と元帥は親友なんです。私は一大尉ですが常に元帥に合えて、どんなことでも話し合える仲です」

安藤の驚きは大変なもので、この人こそ親さまのお告げにあった軍人だと確信し、
(やはり親さまの言ったことは本当だった。この軍人とよく相談してみよう。
きっとマッカーサー元帥とも連絡がとれるはずだ)と期待に胸を膨らますのである。

信じがたいが、この奇縁は次第に深い友情で結ばれ、天皇とマッカーサー元帥との会見へ、また、天皇制護持実現への八面六臂の秘策を練る関係ができるのである。


天皇制護持 GHQへの侵入

それからである。西銀座の本社ビルの屋上から『天皇制護持』の懸垂幕が大きくかけられた。

毎朝社員を集めて屋上の社殿に拝礼と皇居に向かい最敬礼を実施した.
「社長は何かが乗り移っているようで、生き生きとしていた」
連日のようにバーナード フイッシャ大尉と面会して手がかりを模索した。

丁度マッカサー元帥の側近、ボナー・F・フェラーズ将軍(マッカーサーの軍事秘書、准将)がある人を探していると言う情報を得た。

安藤はフイッシャー大尉に同行し、アメリカ大使館の門をくぐった。
「これはチャンスだあ。おそらく民間人として訪問するのは最初でらう」と述懐している。

フェラーズ将軍に会った安藤は、
「私は小泉八雲(http://www.geocities.jp/bane2161/koizumiyakumo.htm)の孫と
戦前アメリカ大使館の武官をしていたとき親交があった。この際小泉さんと会いたいので探してほしい」と依頼をうけた。

安藤は、早速警視庁の西村直己総務部長(後の自民党代議士)とあってこの件を依頼した。幸いに探し出すことが出来、9月10日安藤は小泉氏を伴ってフェラーズ将軍に面会し、

「将軍は、直ちに再開が出来たことに驚くとともに大いに喜ばれ、お陰で私も大いに面目をほどこすことが出来た」と、
安藤の日記にある。

特に安藤が驚いたのは、
「アメリカが日本を敗戦に間追い詰めたのは間違いであった。これは自由主義国家郡の大損失であり、ソ連に漁夫の利を与えることになるアメリカの失政であった」と断言した。

安藤は驚くと共にこれはチャンスだと思った。
「天皇制を守らなければ日本は必ず崩壊するであろう。ソ連が日本に共産主義を作り上げるであろ」
と訴える。

将軍は、
「フィッシャー大尉から君の事は聞いている。マッカサー元帥とも相談してできる限り協力をする」と、
安藤にとっては空を掴むような難題にたして実に心強いありがたい言葉を貰った。

日本の占領政策はマッカサーを始めとする12~3人の「バターンボーイズ」とよばれるグループによって決められていった。中でもフェラーズ将軍と、マッシューバ大佐が実権を握っていたのだった。

フェラーズは親日派の第一人者で元帥に多大な影響を与えていた。

「フェラーズ将軍の居室はマッカサー元帥の隣にあり、私との相談に必要に応じてすぐ元帥の答えを持ってきてくれたと、GHQの心臓部へ食いさがり心臓の鼓動が聞こえてくるのであった」と、

「敵であるアメリカ軍の将軍が日本再建の政策として、必ずしも天皇制を排除しないとの心情を吐露してくれるとは」

安藤は信じがたい実情に驚きを隠せなかったと、述べている。


日本フィクサー列伝(R30/宮崎学)

宮崎学が、時代のフィクサー(黒幕)として、安藤明、を紹介。
朝日テレビが安藤明の業績を45分のドキュメンタリーで全てカバーした、完成度が一番高いドキュメンタリー。これを見れば、安藤明が分かる!


Youtube
YOUTUBE /フィクサー列伝 安藤明

安藤明―昭和の快男児 日本を救った男(古川 圭吾 )

終戦直後、焼け野原の東京・築地に「大安クラブ」が誕生した。多数の美女たちが雇われ、GHQ高官相手に接待攻勢が繰り広げられた。酒、女、破格の贈り物…私財を投げ打って、この昭和「鹿鳴館」を開設した男の名を安藤明という。その目的はただ一つ。天皇制護持ー。歴史の彼方に消え去った快男児の生涯が甦る。終戦史に一閃の光芒を放つ「大安クラブ」の全貌。

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昭和の快男児日本を救った男安藤明

昭和天皇を守った男(安藤真吾)

第2次大戦敗戦直後の日本で、天皇制護持のために全私財を投げ打ってまで奔走した一民間人がいた。その男の名は安藤明。
8月30日、連合軍総司令官ダグラス・マッカーサーの厚木基地への無血進駐に身を挺して貢献し、マッカーサーと昭和天皇の歴史的会見実現に奔走するなど数々の功績を残すが、昭和史から忘れ去られる。
一介の運送屋から身を起こし社員10万人を超える会社・大安組にまで育て上げた風雲児・安藤明が、なぜ昭和史から消え去らねばならなかったのか、現在の日本の礎を築き、守ったともいえる伝説の男の生涯を長男・安藤眞吾が赤裸々に書き下ろす昭和の「裏面史」。
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2016年8月13日土曜日

安藤の直訴


総司令部(GHQ)への手がかりを得た安藤は、吉田外務大臣の回想記にあるように陛下が自発的にマ元帥を訪ねたいとのご意向を、同時に高松宮から松前博士を通じて安藤にもGHQへの手がかりを探るよう要請されていた。

マ元帥の側近のフェラーズ将軍との交流から彼の心情が親日的である事を知った安藤は、フィッシャー大尉とも相談し、この際一気に「頂上会談」の実現をめざして、マ元帥に直訴する決断をし、フェラーズ将軍を訪ねた。

安藤の手記には、
「私は率直に”マッカサー元帥と天皇陛下との会見”を申し込んでみた。将軍は直ぐに元帥のところ行き、30分ほどで戻ってきた」とある。

「私は胸の高鳴りを押さえながら将軍の返事を聞いた」

将軍は、

「マッカサー元帥曰く、本来なら元帥が宮廷を訪問して、天皇と親しく話し合うのが礼儀だが、今の元帥の立場は、連合軍の総司令官として他国への思惑もあり、こちらから訪問することは出来ない。しかし万一、天皇が来て頂ければお会いする」

なんと案ずるより産むが安しと、安藤はマ元帥の快諾を得ることに成功したのである。

日本政府としては天皇のご意向があるからといって、吉田外相の言葉の通り、敵に塩を売ることになっては天皇のお命に関わることにもなり、軽々には実現できず躊躇せざるを得なかったであろう。

そこにいくと安藤は民間人であり、水面下でマ元帥の意向を打診することの出きる立場が結果において日本政府の責任問題にならず、アメリカ日本双方にとって都合の良い運びとなっていったのである。

安藤はこの奇跡的結果をもって、すぐさま高松宮邸に参上し、宮殿下にご報告をした。

会見実現


天皇マ元帥会見

この歴史的会見は、昭和20年(1945)9月27日、アメリカ大使館で行われた。
実GHQから会見に先立ち陛下はお忍びで来てもらいとの強い要請があった。

宮内庁は陛下の警護が出来ないと動揺したが、要請にしたがってパトカーの先導なしで皇居を出られ、御用車に陛下と藤田侍従長が、あとの車に石渡宮相、徳大事侍従、村山侍医、奥村通訳などが続き、一般車と同様に信号待ちをされながら虎ノ門のアメリカ大使館に着かれた。

警護のない異例の行幸はこれが初めてであろう。歴史家の半藤一利氏によれば、陛下の運転手の回想が記載されている。
乗客は高級な御用車を見て中を眺め、ハッとして敬礼していた人もいました。なるべく都電に近寄らないように注意しました。お上は視線は横を見ておられましたが、
お顔は正面を向いて無言でした」とある。

陛下がこの後、いかに勇気ある決断と行動をなさった。それが分かるにつけて、
この車中のご心中を察するには余りあるものがある。

アメリカ大使館の玄関の前には、フェラーズ将軍とパワーズ少佐が出迎えた。

天皇と元帥の会見後の日米の報道は、アメリカ、ニューヨーク・タイムズ紙(1945,10、2)によると、天皇は、

「マッカーサー元帥が占領時、一件の事故もなく占領が遂行されたことに感謝する」

と述べると、元帥は、

「円滑な占領は、天皇のリーダーシップのお陰であり、いかなる流血ももたらさなっかたことについて感謝する」

と述べた。
さらに両者は、日本本土への武力侵攻が行われていたならば、日米双方に多大な人的損失と、日本の完全なる破壊がもたらされていただろうという点で、意見が完全に一致した。

一方日本側は、陛下は戦争の開始について
「自分としては極力開戦を避けたいと考えでありましたが、戦争になってしまった結果を見たことは、自分の最も遺憾とするところであります」と述べられた。

これに対してマッカーサー元帥は、陛下の立場を理解した上で、
「おそらく最後の判断は後世の歴史家および世論によってくだされるのを、待つほかはないでありましょう」と述べられた。

当時の公式報道としては突き詰めた議論がされたことを避け、当たり障りのない内容にされたのである。しかし事実は極度に緊迫した両者の会談内容が次第に明らかになってい来るのである。

新生日本の原点に陛下の不惜身命のご配慮が明らかになってくるのである。

事業の支援者


一方、戦後の仕事はかっての戦需景気とは一変して、復興が喫緊の仕事であって
大安組もその対応に追われて業務の改変に取り組んでいた。

丁度折りも折、大安組は逓信省(ていしんしょう、電電公社、NTTと変遷する)の総裁と縁ができ戦後復興の第一陣として電話線のケーブルを修理復旧する火急な仕事を受注した。

日本全国に及ぶ膨大な仕事だった。
後に国会議員、東海大学総長を勤めた人で有名な松前重義さんが、この逓信省の総裁をしておられた。松前総裁は、厚木基地復旧の功績を認めて大安組を指定業者としたのである。松前総裁と安藤の縁は多大なもので、事業の支援者であるのみか天皇制護持への影の功労者として安藤を引き回すのであった。

親さまのお告げは、事業の支援者でもあり天皇陛下のお為に二人して尽くすことになる。

松前重義(Wikipedia)

信じ難いが奇想天外な発展が広がるのである。
松前総裁は工学博士として高松宮の技術顧問として、宮のお傍におられた。
日本が欧米に比べてはなはだ脆弱であり、危機迫る戦争末期の戦況を分析しご進言されていたのである。
通信ケーブルの延長工事が進むにつれて、大安組は社員と営業所を増加させ、次第に全国的に発展していった。
戦後復員軍人に対して、新聞に大々的に求人広告をだして
「私は戦後の失意の中にある戦後の復員兵にたいして、少しでも元気になったほしい」と安藤は気を使っている。
親さまの告げた協力者とは予想外の人格者であり、事業家であり安藤の影の指南役として活躍されるのである。

安藤明の足跡

転々として定職の無かった安藤は、子供が二人、荷役労働者のころに志していた運送業の将来性に着眼し、産業地帯として活気のあった東京の城南地区の蒲田に貸家を得て、自転車一台で運送業をはじめた。しかし、それは運送業と言うより御用聞きのようなもので、小口の運搬を 捜し歩く日々であった。

安藤の手記に、「けつが真っ赤にはれてきたが、痛さにまけずに・・・」
といって歩き回り、中には少しはまとまった仕事を得ると、知り合いの運送店に依頼して仕事をこなしていた。リヤカー一台すらない運送やなど誰も相手にしてくれないが、次第に人柄を買われ中古トラックを月賦で買って近くの産業道路に面した小さな車庫を店にして運送屋の一歩を印す。

ー大安運送店ー


大森の安藤だから、『大安運送店』と名乗った。
昭和14年(1939)安藤39歳の時である。住まいは小さな貸家で、田んぼの横にあり台風で洪水して大きな池のようになったことがよくあった。
支那事変から太平洋戦争に突入前の産業拡大時期であった。運送仕事も多くなってきた。
反面流通業の再編時代で、大手運送会社が中小の運送店を買収する運動が起こっていた。
運送業は大小にかかわらず縄張りがあって、そのための競争は多くの抗争事件へとなっていった。

「仕事の取り合いは日常茶飯事、強いが勝ちの男の世界だ」

「俺はな、喧嘩は一人で行くんだ。なまじ加勢があるとやりにくい」

「相手が10人いようと、近くの川の中へ一人ひとりほっぽり投げるんだ」

「命がけだった。子供のためだ。お父さんは強かったんだ」

「 威風堂々あたりを払うがごとき風格があったのだ」

と、自画自賛もはなはだしいが、子供に対して父の武勇伝がよく飛び交う。

そんな安藤の青年のころは叔父木下忠義の運送店の手伝いで17歳のころ北海道の岩内に移転した。

大自然に魅されて生き生きと青春を謳歌するのである。そこでの荷役仕事が安藤を鍛え、さっそうと裸馬にも乗って「人生で一番幸せだった」と振り返るのである。
帰京して新宿駅の荷役作業につき重労働が安藤の堅牢な体を作っていった。
この近在にある運送店60社ほどを団結させて城南運送株式会社を設立して初代の社長になり、大手運送業者と対決した。

安藤の豪腕と政治力が発揮されたのはこんな時期であった。
本業の運送業は急速に発展し、同じ産業道路沿いに二階建ての立派な事務所兼自宅を買い取り社名も、『大安組』と大きなカンバンが掲げられた。


大安組

周辺には作業所、トラック基地などの施設が出来、運送業のみならず土木工事や建築にも規模を拡大していった。
千束の豪邸を買ったのもこのころである。
世界はヨーロッパを中心に戦争の兆しが高まるころ、日本でも戦争気配のなか、産業拡大政策と共に戦争景気が高まっていく。
一種の戦需景気である。

運送は基幹産業を支える事業だけに仕事はいくらでもあった。
1939年6月、ドイツと英国の戦争が勃発し、第二次世界戦争へと入っていく。
日本は、12月8日、ハワイ真珠湾の奇襲攻撃からアメリカに宣戦布告。
世界戦争が始まる。

国内の戦争ムードはいやがうえにも高まりを見せていく。

そんな時期軍需景気にのっていよいよ事業はうなぎのぼりに拡大していく。
事業家として千載一隅のチャンスであった。

銀座本社

大安本社太平世戦争が激しさを増して、勝利に活気に溢れるころ、

軍需工場の建設、飛行場の整備、湾岸荷役など公共事業は、いくらでも転がり込んできたようにあった。

軍需省の顧問や、破壊消防隊の団長、全国自家用自動車組合会長などの要職にもつていた。



日本の一等地の銀座に本社ビルを持ち、別館、支社も銀座近辺に置き、全国へと支店網を拡大していった。従業員は拡大の一途で、2万人とも3万人とも言われていた。



敗戦。日本のは「亡国の淵」に立たされた。
昭和20年8月24日。

これからが運命のいたずらか、佐藤六郎大佐と呉越同舟が始まる。この運命の船に、安藤は乗せられて厚木基地問題からさらに、国に関わる重大な激動の運命に引き込まれていく 。          銀座 大安組本社

安藤は運命の岐路に立たされているとも知らず運ばれて行く、ここがその運命の出発点だったのである。

数奇の運命は、それはそれは急ぎ足に安藤をひっぱて行く。
誰が何のために。こんなに急いで。

誰も止めることはできない。



安藤の砂上の楼閣

安藤明は時代の風雲児、仕事を終えて役割を果たすとこの世をすぐ去っていった。
そのような仕事を成す男の下には資金が集まり、その為の物資があつまる。
彼の豪邸もそのひとつだろう。摩天楼のように現れ、砂上の楼閣のように過ぎ去っていった。

五反田駅を過ぎて、第一国道をそれ、仲原街道に入る。
横浜を目指し、裏洗足池の手前を右折すると、千束の高級住宅地に入る。
坂を下り始めるとすぐ安藤の邸宅が右に見えてくる。

ブーイック41年車

土地1200坪、邸宅150坪、白壁に鮮やかな空色の瓦を載せた塀に囲まれて、庭の樹木が高々と塀越しに見える。

坂道の途中に入り口があり、石段を数段上がると、植木に囲まれた門がある。中には石畳の道があり重厚な洋館の表玄関がある。

六畳ほどの表玄関から中に上がると、十畳ほどの待合室があり、その奥の間が30畳ほどの応接間となっている。入ると吹き抜けの広間で二階の天井からはシャンデリアが2本長く垂れ下がり、さらには二階にはテラスがせり出している。

六畳ほどの表玄関から中に上がると、十畳ほどの待合室があり、その奥の間が30畳ほどの応接間となっている。入ると吹き抜けの広間で二階の天井からはシャンデリアが2本長く垂れ下がり、さらには二階にはテラスがせり出している。

大窓からは植木越しに広い庭園の芝生が見え、奥にはこんもりと森のような樹木が邸宅を守るように立ち並んでいる。庭園を横切る池には1メイトルもの大きな緋鯉が何匹も泳いでいる。




応接の隣には大きな書斎があり、続いて奥の間は和風の大部屋が2つ、廊下伝いに安藤の離れ間がある。台庭に入ると、大きな二階建ての土蔵が白壁を見せてずっしりと建っている。ここには300坪ほどの園芸があり、安藤が好んで野菜やらの栽培を楽しんでいる。
さらに庭園の裏は倉庫と車庫がある。

戦争中はこの庭園の地下に防空壕が掘られていて、避難場所と共に倉庫として使われていた。


人間の運命なんて分からないよね。
こんな天国みたいなところに住み、銀座に会社のビルが3つ。全国に支店。社員2万人ともそれ以上とも言われた。
熱海海岸
熱海海岸
  (熱海の海岸。別荘前 安藤と男児)

別荘にいたっては、熱海に2つ、一つは「お宮の松」の前、通りを越えれば海。
ここは家族の専用。父は熱海の山腹に海を見下ろ斜面にある広大な別荘だが、
砂上の楼閣だったんだ。こんな時代もあった。

2016年8月12日金曜日

天皇、マッカーサーの会見

会見実現の背景を観察してみよう。
吉田茂元総理の「回想10年」吉田茂著、当時外務大臣の立場で、以下のように述べている。


「当時私は外務大臣になったばかりの頃、元帥にお会いしたいといわれる陛下のご内意を聞かされた私は、随分いろいろ考えてが、やはりお会いしたほうがよいと思って、その旨を元帥に伝えてみた。すると元帥も大賛成で陛下がお出になれば、何時でも喜んでお会いしたいということであった。・・・」



一方マッカーサー元帥の「回想録」から見ると、

「私は東京に着いて間もない頃、私の幕僚たちは、権力を示すため天皇を総司令部に招き寄せてはどうか、と私に強くすすめた。私はそういった申し出をしりぞけ、彼らに言ったのだ。そんなことをすれば、日本の国民感情をふみにじり、天皇を国民の目に殉教者にしたてることになる。いや私は待とう。そのうちには、天皇が自発的に私に会いに来るだろう。今の場合は、西洋のせっかちよりは、東洋のしんぼう強さのほうが、われわれの目的一番かなっている」

と言われたのだ。
(殉教者とは宗教のために身命を投げ捨てる人)

続けて元帥は
「実際に、天皇は間もなく会見を求めてこられた」と書いてある。

両国を代表する元帥と吉田外相の話しで会見前の客観的状況が、読者にお分かりいただけると思う。

会見の真相は安藤がこの演出をしたのである。

そこで一人の証言を紹介する。

第63代、佐藤栄作元総理大臣は、
「安藤君との付き合いは、私が自動車局長のころからだ。彼はまことに豪快な人物で、私とは大いに意気投合し、時には喧嘩をした仲である。あの歴史的な”天皇とマ元帥の会見”
これを実現させたのは、まさしく安藤君一人が心血をそそいで奔走したからである。・・」

(平成二十四年五月12日読売新聞朝刊で”佐藤栄作7年8ヶ月”と題して彼の総理としての業績がくわしく紹介されている。歴代総理在任最長の佐藤は、沖縄返還を実現させたことで有名である。池田勇人総理の後を受けて昭和39(1964年)総理に就任した)

佐藤総理には安藤の葬儀委員長をしていただき、一周忌は盛大に東京虎ノ門の消防会館で行はれ、安藤の業績を称えていただいた。

ことのついでに紹介しておくが、元衆議院議員、元通商産業大臣、運輸大臣の佐藤信二氏は佐藤元総理のご次男である。

息子安藤真吾は本人にお会いして以下の言葉を頂いた。

「著者安藤眞吾君とは大學の同級生である。この度、父佐藤栄作が”天皇とマッカーサー元帥の会見”が安藤明氏の功績であると証言したことを、本書に掲載したいと言ってきた。私は”安藤明氏は国士である”との言葉を添えてよろこんで承諾した」
(平成19、2007年、拙著発刊に際して)

佐藤元総理と安藤の間柄は、戦中、戦後、安藤が全国自動車組合の会長をしていた頃、希少なガソリンの配給をめぐり、自動車局長の彼との交流が深まり、公私に親密な関係となっていった。安藤は次期総理の器と佐藤氏を高く買い、栄作、栄作と親しみを表現していた。

緊急命令 米軍司令官26日正午に厚木に着陸

海軍本部に入った佐藤は、和田本部長の緊張している顔を見て、

「おそくなりました。お呼びでしたか」
「ああー、早速ではあるが大至急厚木に行ってもらいたい」
「何用でありますか」

「米軍の司令官が26日正午に厚木に着陸すると言ってきた。君も知っているだろうが、小園司令が終戦反対と叫んで騒動を起こしている。君は小園と同期だから説得して飛行場を整備してくれ」

佐藤はしばし唖然として、

「小園のことは百も承知していますが、頑固でちょとやそっとでは動きませんが」
「我々が如何に説得しても聞いてはくれない。高松の宮殿下の説得も聞かん」
「佐藤大佐、君が頼りだ。何が何でも解決してくれ」

「ここでアメリカとドンパチやったらどうなる。日本国の命運が掛かっているんだ。天皇陛下の・・・」

と、直立して言葉をにごす。
佐藤は非常事態を如何に処するか内心ピーンときて、
しばし時間を置き腹を決めて、

「分かりました。厚木のことは私に任せていただけますか?」
「よろしい。まかせる。直ちに行ってくれ」

事態は急転直下するのである。

「車を用意してくれ」部下に頼むと、
「大佐、あいにく動く車がありません」
部下の声を聞いて、待たせていた安藤の車のことを思い出す。
「そうか。よい。なんとかする」

ここが運命の分かれ道であったとは安藤は知るよしもない。
安藤にしてみれば工事代金が気になるところ、貰えないかもしれない。

「くそー遅いなー、毎度のことだがまたもや延期か?敗戦なんだ貰えなくてもしょうがない」

と、半ばあきらめながら機嫌を直して待っていた。
佐藤はなにやら蒼白の顔をして急ぎ足で下りてきた。

「やー済まぬ済まぬ。実は君に折り入って頼みがある」と、厳しい軍人の顔を見せた。
「なんですか」と安藤がはき捨てるように言う。
「実はな。君も知っているだろう厚木のこと。俺は直ちに厚木に行かねばならん」
と軍刀を強く握り締めて厳しい目つきで安藤を射るがごとくに見るのである。

安藤はこれまで幾度も物入りの危機をくぐってきているから、佐藤を見て尋常ではないと悟る。

「すまんが、車を貸してくれ」

ビューイック41年型高級車

安藤の自家用車は日本に一台しかない41年型ビューイックの幌つきアメリカ製の高級車である。

(この車はかって開戦前までアメリカの駐日大使のジョセフ・グルーの使用していたもので、帰国後グルーが米国で親日的な政治活動をした功績を知るにつけ、グルーの車と安藤との運命的な不思議な縁を感じる。後にこの車は安藤の稀有な運命を乗せて「亡国の淵」を走るのである)

「分かりました。いいでしょう。乗ってください」
運転手は安藤の信頼を一心に集めている手塚修である。
大柄で、色白、笑うたびに白い前歯を大きく出すのが印象的だ。

「手塚。厚木へ行くんだ」
「はい」

佐藤は大正15年12月、小園と共に霞ヶ浦の航空隊に入隊し、その後たびたび同じ隊で勤務した。
(戦争中は俺が相模の航空隊に、小園は隣の厚木航空隊にいて、兄弟以上にお互いを知り尽くしている。彼の気持ちは良く分かる。我々軍人は大なり小なり皆同じ気持ちを持っている。小園はその気持ちをここでいち早く爆発させたんだ)

「ところで、安藤さん」
走り出してから、しばらく沈黙していた佐藤が話し出した。

「事のついでに俺の骨を拾ってはくれまいか」
「えー、なんですって、ただごとではありませんね」
「俺はな、覚悟を決めているんだ。小園を説得が出来ないことは俺が一番よくと知っている。だからな俺は小園と刺し違いにして死ぬんだ」
「俺が生きて帰れないときは代金も払えないが」
「こりゃー問題だ」ただ事でないこの事態に、安藤は
「よろしい。いいでしょう。こうなったら一緒に行きましょう」

安藤は自ら運命の鍵を180度逆回転させたように、呉越同舟のドライブとなっていく。
ことはこんなちょっとした出会いと人の縁によって動いていく。

安藤は、このドライブが天下を取るような勢いの人生を、天下を動かす影武者となってまっしぐらに全身全霊を投じて、天皇制護持にまい進し、ついには地獄に突っ込むドライブになっていくとは、誰が想像するであろう。

にっぽん秘録

中山氏による執筆は、まことに精力的で、安藤の死後1年足らずに刊行されたことは、驚きであった。

中山氏の著作で有名な「馬喰一代」が映画化され、かつって私も鑑賞したが、親子の深い情熱が、青年の中山氏自身が進学の道を選び、北海道を後にするラストシーンで、涙ながらに最後にレールに耳をつけて去り行く息子の列車を慕う馬喰の父親が(三船敏郎)今でも鮮明に記憶している。

「にっぽん秘録」にある著者のあとがきの一部を紹介すると氏の辛苦が浮かび上がる。

『この執筆中にたえず強い風が書斎を襲った。私はこれを安藤の霊の叫びだとおもった。風雲児安藤はまだ今生に未練を残しているのではなかろか。
それは私的なことではなく日本の行く末を案じて、なお多くのことをやりたっかったのではなかろうか。・・・
晩年不遇のうちに暮らした川崎宿河原の安藤の居宅を訪ねた。二階建ての20坪ばかりの家は空き家になっていた。
ひどく粗末な建物で、いまにも崩れ落ちそうに傾いていた。・・・安藤の事蹟の執筆にあたって週間文春の英断があった。
発表するにあたって多くの危険を持っていた。はたしてこれだけの大事件が、事実であるかどうかということであった。
安藤の手記や側近者の談話を実証するために、編集者はかなりのエネルギーを費やした。
私は執筆中たびたび眼を病んだ。厖大な資料を読むことで、疲れきったのだ。重大な秘事なので一人で執筆した。・・
馬喰の子の私が馬車追いあがりの安藤明を描くのも、なにかの因縁であったか・・』

にっぽん秘録
にっぽん秘録

表紙にはGHQの前に立ちはだかる男の大きい姿が描かれている。
このGHQは第一生命の本社ビルが接収されて使われていた。
焼野原の東京の中に焼けずに残ったのは皇居とわずかのビルであった。
このGHQビルはお堀を境にして皇居と向き合って立っている。

不思議なことに安藤がこの皇居とGHQの狭間に立って、運命の綾に導かれて夢中になり必死に工作して、天皇制の護持の実現にいささかなりとも尽力できたのは、結果的には至極幸運であったと言わなければない。

その後この「にっぽん秘録」の焼き直しや、2~3の著作があるが、私の著書もまたこのたびのブログもこの記録本によることが多い。

松本清張によるテレビドラマで「焼け跡のクリスマス」(昭和56年4月26日、テレビ朝日)の放映は、この「にっぽん秘録」を原作にしている。

マッカーサー元帥 厚木を選ぶ


厚木の残兵は、徹底抗戦の構えで武器を捨てず上陸をさせじと戦闘態勢にあった。

「ここを選んで突入する」マ元帥は厚木をあえて選び突入してきた。
マ元帥は闘将だよ。敵のいない羽田空港を選ぶはずはないんだ。


「ちょっとでも抵抗があって流血の事態になれば、占領政策を強行的に出来る」
と、アメリカの良く使う手法、そしてそれがアドバンテージというやつだ。

ある人に言わせると、真珠湾の奇襲はヤラセだとも言われている。
すでに述べたが「先遣隊は80%の確率で全滅する」と、マッカーサーは覚悟の上での決断だった。

「メルボルンから東京の道は遠かった」有名な彼の第一声。

しかしこの静かな進駐の陰には、「われわれ側近は、こぞって厚木進駐を反対していたにもかかわらず、いつものよにマッカサーは正しかった」随行しているホイットニー将軍の言葉である。

「マッカーサーは東洋を知り、日本人の基本的性格をあまりにも良く知っている。日本の武士道と呼ばれる伝統的な騎士道の精神を知り、また信じていたんだ」と、

また側近のウイロビー少将は、
「日本兵があんなに静かで、無血進駐できるとは全く信じられない」

なんとマッカーサーは進駐時に先遣隊が85%の確率で全滅するものとふんでいた。

「そこでもし一兵でも傷つけられたら、直ちに日本近辺の米軍全航空基地よりB29全機が一斉に攻撃を開始して、空前のジュウタン爆撃を、東京始め全関東にする指令が出ていたんだ」

一触即発の危機があった。

緑十字機

進駐軍が厚木へ上陸するまでにも、ひとつのドラマがあった。

昭和20年(1945年)8月15日大日本帝国は、ポツダム宣言を受諾した。
8月16日アメリカ政府より、日本軍の正式降伏受理のために打ち合わせをする権限を
有する使者をマニラ(フィリピン)のマッカ-サ-連合国最高司令部のもとに出頭させよ
との通告が届いた。
 

イメージ 1用意された一式陸上攻撃機2機は、2機ともすべて真白に塗装され日の丸も消され日の丸
のあった位置に緑十字をいれた。これは、米軍に撃墜されない様に指定されたものだ。

白い軍用機(一式陸上攻撃機)胴体と主翼とそれに尾翼に緑十字を大きく書いて木更津軍用空港を発った。その数2機。ここに当時講和の使者の代表に選ばれた河辺虎四郎中将の回想録があり、それにに詳しく書かれている。

この写真で白い軍用機が2台あるのが分かる。一台は「おとり」で、米軍の指示でこの異様な軍用機となった。ここでの敵は米軍ではなく日本の戦闘機だ。


河辺団長一行16人は厚木基地での抗争している日本軍の攻撃を如何にして避けるか。
厚木の抗争がここでも暗い影を投げかけている。

抗争組との話し合いが出来るわけがない。彼らもまた国のためと言う忠誠心の発露を、徹底抗争という形で必死になって孤軍奮闘している。
昨日まで「一億総玉砕」と国民をあおっていたのは日本軍政府なのだ。

米軍に日本国は壊滅させらるかもしれない、天皇は殺される。
この危機感があった。この憂国の思いを誰が否定だろう。

戦争は天皇陛下の詔勅で終わるべき時期に、味方の中に反乱軍がいて、敵よりも危険な怖い存在になっているんだ。
厚木は日本最大の海軍航空隊だ。ゼロ戦で戦った勇者がいる。

そんなわけで、おとりは、本土沿いに南下、本機は伊豆七島をはるかに回遊して一路沖縄の伊江島基地に向かったんだ。
何時攻撃されても覚悟の上とはいえ無事に米軍基地となっている沖縄の伊江島に到着。屈辱の思いの中、米軍機に乗り換えてフイリッピンのマニラ基地に到着。

翌日20日。米軍代表との談判とは、戦勝国だからこそ無理なことを言うのは当然だけれど、なんと

1.進駐基地は、厚木。
2.進駐時期は8月26日に先遣隊が、続いてマ元帥は28日。
3.講和の調印は31日
と、日本側は基地の変更と、到着時期の延期を強く訴えたが、聞き入れられず押し切られてしまう。

特使の一行の帰路は飛来して来たとき同じく、伊江島にて白い軍用機に乗り換えて一路東京へ。

国家の存亡を担った一行は緊張のマニラ滞在を終え、本土を東京に向け北上中に思わぬ事故に遭遇する。
搭乗機がエンジントラブルで不時着となった。
この非常事態によって、特使は失敗に帰すことにもなるかもしれない。
優秀な操縦士は奇跡的に不時着の成功をやり遂げた。
遠州灘の海岸近くの海面から着水し、機体は浅瀬の砂浜に無事着陸したんだ。奇跡だ。

幸い特使は、翌21日、浜松飛行場から別の戦闘機で飛行して東京の調布飛行場に到着し、川辺特使は直ちに総理官邸で任務の報告、陛下に拝謁して使命の上奏を済ました。
きわどい決死の任務は無事完了した。

しかしである。特使が受取ってきた米軍の厳しい条件の実行は不可能に近いものであって、厚木基地進駐までは、6日間しかない。

これからが、厚木反乱事件の顛末が待っているのである。
無血進駐実現に向かって。

2016年8月11日木曜日

いざ、厚木へ、三〇二航空隊司令官の小園安名のもとへ

途中安藤は自宅に佐藤を招き、急ぎ飲み物を積み込んで、一路厚木基地へと出発する。
実は安藤はいかなるときにも勘がよく、自分らの飲み分以外にトランクに家のありったけの酒を積んでいた。

再び仲原街道を南下する。直ぐに右手に洗足池が見えてくる。
日蓮上人が足を洗ったとかでその名がついている。池はこんもりとした森に囲まれ、裏山には桜山という名所がある。桜の満開時には多くの花見客でにぎわう。

多摩川の丸子橋を渡ると神奈川県川崎市にはいる。小高い山の上は慶応義塾の日吉キャンパスがある。綱島温泉を経てやがて横浜市に入り、東海道、国道1号線を下り藤沢市から右折して厚木基地に向かう。

厚木基地ではなにが起こっていたのか、しばらくその背景を説明しておきたい。

反乱事件のリーダーは海軍大佐の小園安名である。
小園大佐は三〇二航空隊の司令官で、生粋の戦闘機乗りであった。ラバウル航空隊司令のこらから、数々の戦果を上げていた。三〇二航空隊というのは、本土防衛を任務とし、撃墜戦果は120機といわれる。そのうち、B-29をなんと80余機も撃墜している我が国最強と言ってよい航空隊です。歴戦の勇者である。

このため、零戦は当時の連合国パイロットから「ゼロファイター」の名で恐れられた。ことに小園大佐の考案による「ななめ銃」は零戦の上に強力な銃を斜めにとりつけ、米空軍の誇る重量爆撃機B29に向い、死角である胴体の真下に入りこみ、胴腹を攻撃して墜落させる威力は米軍に多大な損害を与えていた。

昭和20年8月10日午前2時半、昭和天皇は御前会議において、「国家、民族のために、私がこれなりと信ずる所をもって、事を裁く」と仰せられ、「ポツダム宣言」を受諾した。これを聞き、小園司令は全員の顔を見渡し、隊員に総員集合を命じ、次のように訓示を行います。
--------------------------------------
降伏の勅命は、真の勅命ではない。
ついに軍統帥部は敵の軍門に降った。

日本政府はポツダム宣言を受諾した。
ゆらい皇軍には必勝の信念があって、降伏の文字はない。

よって敵司令官のもとに屈した降伏軍は、皇軍とみなすことはできない。
日本の軍隊は解体したものと認める。

ここにわれわれは部隊の独立を宣言し、徹底抗戦の火蓋を切る。
今後は各自の自由な意志によって、国土を防衛する新たな国民的自衛戦争に移ったわけである。
ゆえに諸君が小園と行動を共にするもしないも諸君の自由である。

小園と共にあくまで戦わんとする者はとどまれ。
しからざる者は自由に隊を離れて帰郷せよ。

自分は必勝を信じて最後まで戦う。
-------------------------------------------------------
他にも、

「赤魔の巧妙なる謀略に翻弄され、必勝の信念を失いたる重臣官僚共が、国民を欺瞞愚弄し、ついに千古未曾有の詔勅を拝するにいたれり。日本の天皇は絶対のお方であり、絶対降伏なし、我ら航空隊は絶対に必勝の確信あり。ポツダム宣言の履行命令に服するときは、天皇を滅し奉ることになり、大逆無道の不忠なり。今こそ一億総決起の秋なり」

と書いたビラを作り、15日厚木基地を発った戦闘機は東京上空から皇居、首相官邸等に大量に撒き、海軍航空隊は健在なりと示威飛行をしたんだ。

歴戦の勇者は何時の時も、激戦の現場を知らない大本営に不信感を募らせ、戦略の不備にあえぎながらそれでも必死に戦ってきた。

戦闘現場と本部の意識の隔たりは、国を思う忠誠な思いが、終戦を米軍等による謀略と捉え、天皇のお命を守らなくてはならない。との忠誠心の危惧が高まり、敗戦を受け難しとする 思いがあるのは当然であった。

厚木基地の反乱を一概に非難するには当たらないのではないか。
そんな時代背景があったのだ。



厚木事件

事態を重く見た海軍省は、小園大佐を罷免し、実力行使をもって厚木航空隊を鎮圧する決断をする。そして横須賀陸戦隊の一個大隊に出動命令を出した。
8月18日、中戦車20両を、化学中隊は催涙弾を持って出動準備に入っていた。

一方高松宮殿下は直接小薗に電話され、
「ご聖断は大きな見地から成されたのだ。このご判断に我々は従わなくてはならない。すでに各軍隊は大御心を拝して武器を捨てた。この期に及んでまだ抗戦するつもりなのか。よくよく考えてみよ。いいな、分かったな」と説得された。

また大本営は全戦闘地区に対して、戦闘停止と復員命令を通達した。厚木も同様、各掌長を残して全員解散、即隊を離れて復員せよ」と命令を発した。

それをうけて小薗はやむを得ず基地の兵隊4500人にたいして復員の許可を与えてた。しかし捨て鉢になった小薗は、抗戦の本意は変わらず、各掌長と一部の同士を残し、最後の抵抗に打って出た。

「出て行けと言うなら黙って出るわけにはいかぬ。我々は最後まで残って日本人ここにありの気概を見せてやる」と、

一斉に戦闘機や爆撃機を滑走路に運び出し、燃料を抜き、タイヤをパンクさせ、プロペラを壊したりして放置させた。なんとその数250機である。

隣接する相模野基地、横須賀基地からも武器弾薬が略奪同様にして、厚木基地に集められた。当時の厚木基地の戦力を見ると、兵力は搭乗員をふくめて5500人。保有機1200機。食料、弾薬、燃料は2年分貯蔵できた。


昨日までは日本海軍最大の航空基地も、今は見る影も無く無残な飛行機の墓場と化してしまったのである。

滑走路は完全に閉鎖された状態になり、これが厚木事件の始まりとなった。





厚木基地へ到着


夕暮れと共に雨が降り出す。ヘッドライトに映し出されてきた暗闇の滑走路には、数え切れない飛行機の残骸が四散されている。

安藤の仕事感はいつでも鋭い。
「佐藤大佐、これは大変ですね」

(安藤の感は、この残骸を撤去するのはどうするんだ。これはいい仕事になるんだが・・)と、心でつぶやいた。

「そうだ、これは大変な仕事だ。それよりも前に小薗がどうなっているか?こいつをを方付けなければならない、安藤さん一緒に来てくれないか」











厚木飛行場


基地内は兵隊の数も少なく閑散としている。
庁舎の前で一人の士官を見つけて

「おい、そこにいるのは小長谷君じゃないか。どうなっているんだ。馬鹿に静かだが」
「佐藤大佐ご無事でしたか。実は今基地の隊員を大勢送り出したところです。ところで大佐はどうしてここへ来られたのでありますか」

「俺はな、山澄大佐の補佐官として今着任するところだ。これから厚木航空隊の小園大佐に会いに行くんだ。君案内してくれ」

車に3人が乗り、雨でるかるだ基地のなかの不気味に暗くなった道を進む。本庁舎前に到着。緊張高まる佐藤は、小長谷参謀の案内で山澄大佐と面会した。

直ちに委員長の有末中将を紹介され、

「私は海軍本部長の命令で厚木基地の整備にまいりました」と報告。
「ああご苦労さん。シッカリ頼む」

「ご紹介します。私をここまで送ってきてくれた安藤さんといいます。軍の特別顧問をしていて、私の中島飛行場の緊急整備をやってもらったりしています。信頼できる男ですからご心配なく」

安藤は無言で会釈して一歩下がって席に着く。

安藤は事業家として修羅場をくぐってきた貫禄があたりを威圧する。

有末中将も安心したのかタバコをつけて一服し
「ところで小園司令はどうしていますか」
これは佐藤の主任務である。

「うん、小園たちは、別の部屋に陣取って盛んに意気まいている」
(防空壕に反乱兵らが立てこもる)

苦々しい顔をして佐藤を近くに呼びよせ、
一気にまくし立てる。

「実はな、いろいろやったが手が無い。司令を如何に始末するか・・」
「司令の周りには、強行分子が取り巻いている」
「下手に手を出すと、取り巻きまでが騒ぎ出す」
「その上滑走路には飛行機の残骸をバラまいてある」
「やつらはもうやけっぱちになっているんだ」
「下手なことをすると騒ぎが大きくなって手がつけられなくなる」
「高松宮殿下もご説得の電話を直接頂いたが効果が無い。軍医が来ていて小園の身柄を引き取りたいとは言っているが、事態は動かない・・」

と一気に状況を説明した。

佐藤六郎大佐は、
「小園司令とは同期の桜で、なんども同じ基地で働いてきました。私にこの始末を下命されたのには小園とのこのような関係からです」
「そうか。頼りにしている。小園はガンとして動こうとはっしていない。見ただろうが、滑走路には壊した飛行機が散乱している」

有末中将の話を聞いて佐藤は、

「はい、安藤さんとも現場をみてきました。とんでもない惨状です」
「佐藤君この飛行機を片つけるのは大変だぞ。下手に手を出すと撃ち合いが始まる。彼らは狂乱状態だ。やけくそになったいる」

「小園の狙いは反乱軍を大々的に組織して、米軍相手に徹底抗戦を狙っていたんだ」
「クーデターですか」

佐藤の問いに答えた
「そうだ。彼の声明文を読んだろう」



役者出揃う

厚木事件の首謀者小園、刺客の佐藤、会添の安藤と役者が揃った。

無言の小園とは違って兵士たちは民間人の安藤に自分たちの立場を話しかけてくる。

「俺たち兵士はみんな天皇陛下のために戦ったんだ。沢山の戦友たちは、みな天皇陛下万歳を叫んで死んだんだ。それが軍人教育であり、日本人としての忠誠心だった。
それが敗戦と聞いた時、天皇の国、日本が消える。俺たちの体に流れている日本人の血の本源がなくなるんだ」

小園の顔をチラリと見ながら(小園の心情であろう、小園をかばいたい思いがあるのだろ)

「兵士はここ厚木から二度と帰還できない神風を飛ばし、敵艦めがけて突っ込んで行ったんだ。だから俺たちは戦死した戦友のためにも最期まで戦うんだ」

安藤はうなずいて、

「兵隊さんの気持ちはよく分かる。俺も日本人の一人だ。確かにアメリカは憎い。しかし陛下はこれ以上戦争はやめろとおしゃったんだ。陛下は忍びがたきを忍べとおしゃったんだ」

しかし安藤の説得が通じるはずも無い。

「お前なんかに、おれたちの気持ちが分かるか」
兵士の一人が立ち上がる。

安藤も気が強い。

「なに!お前らは負け犬のくせに・・」
と言って口をふさいだが、
「なにおこの野郎!」
と言うや安藤に詰め寄る兵士もいた。

安藤も立ち上がり、酒の勢いもあって外に飛び出した。

「このやろー、てめいがたれた糞の始末もしやがんねいで」安藤はこうなると口が悪い。
掴み合いになるところへ佐藤が飛んできて二人をなだめて席に戻す。

再び小園の横に席を取り酌を勧める。
安藤の音頭でまたもや浪曲が飛び出し、みなこれに和して手拍子よく歌いだす。

次第に夜もふけて一同ますます杯を傾け威勢をあげる。
佐藤と安藤は小園を持ち上げ、歴戦の武勇談を引き出して盛んにもてはやす。
小園も機嫌を取り戻し安藤のおせいじに紅顔をほころばせ、

「安藤さん、分かるか。俺たちの本心を。見ろ彼らも純真なんだ」
続いて持論が吹き出る。

「アメリカは必ず天皇陛下を殺す。天子様が悪いのでは無い。こんあことになってしまった我々が悪いのだ。それに変わって責任をお執るりになろうとされているんだ」
安藤も武士の流れを汲むサムライの血が流れている。

「司令の気持ちは私と同じです。私も武士の端くれでして」
(安藤が後に運命の綾に引きずられて、事もあろうに天皇陛下のご安泰を願って奇蹟の行動を起こすことになろうとは。

安藤の心中に、小園の魂が乗り移っていったとは、この時には知るよしもないが)

コップ酒で一気に飲み干して返杯が安藤に来る。
「いやーもうーたくさんですよ。司令はお強いんですね。私はまいりました」

小園との酒宴

「ともかく、ただ今から現場を見てまいります」
と、言って佐藤は安藤を伴ってその場を引き下がった。

別室で待機していた山澄大佐に
「ところで司令はどこにいるのか」
「今、伝令が帰ってきます。そこで様子を聞いてみましょう」
やがて伝令から小園は奥の兵舎に居ることがわかった。

佐藤は秘策を練っていいて、安藤に協力を頼む。
「よし、佐藤大佐の骨を拾う約束をしたんだから、私も反乱軍に合ってみよう」と、腹を決めた。

安藤のこんな時の決断は多くの修羅場をくぐってきてだけに度胸が据わっている。
他人に頼まれると、
(頼まれましたとニッコリ笑い、ポンと叩いたこの胸は、金と銀との音がする)
安藤の18番である。

安藤の車で兵舎にむかう。
車中で佐藤が口にした秘策は、
「先ずは小園を酔わせる。安藤さんうまく酌をしてほしい。その上でこれを使う」
これとはなにか?

佐藤は兵舎に入り、案内された場所は奥の小講堂の中であった。

小園を中心に将兵たちが2~30人、円座を組んでいる。

佐藤の敬礼に彼らは立ち上がらうともせず、その場で軽く敬礼をする。まるで葬式の晩のように不気味な空気があたりを覆う。

「小園司令、久しぶりだな。元気そうでなによりだ」
「貴様も元気か?・・」
怪訝そうな顔をしながら、(こいつもまた回し物だな)と勘ぐっている。

「ところで何しにきたんだ」
再開を喜ぶどころか、警戒心をあらわにして、鷲のような鋭い目でにらみつけてくる。

歴戦の勇者だ。どんなに死線をくぐって敵と闘って来た事か。
零戦を乗っては鬼才を現して多くの戦果を挙げた英雄なのだ。
彼の発明したななめ銃で何機もの米軍の爆撃機を打ち落としたことか。
心は凛として澄んでいる。
時代が彼を反逆者と決め付けているだけで、本来ならば彼も英雄として顕彰されるべき立場なのだ。

ただ今ここに居る小園は、志半ばにして反乱の機運が実らず、功を失って意気あに!消沈しているのか、多くの将兵とやけ酒を飲んでいる。

頑健そうな丸顔に広い額、きりりとした高い鼻筋、プロペラ髭が威厳を顕しているが、よく見ると無精ひげも目に付く。

円座を組んでいる将兵の中央に小園はどしっりとあぐらを組んで座「ここに座ってもい一かな」と、佐藤が話しを向けて
「紹介したい。この人は民間人で、軍の輸送事業などを広くんだ。それに軍の顧問もやっいる。ちょうど車が手配できず安藤さんの車を借りて一緒にきたんだ」


小園はじろ・・と安藤を見て、紅顔でどっしりした体格と自信ありげな面魂に、
(これはただ者ではないな)と直感する。



安藤は軽く一礼して席に着く。
小園の発する威圧感にさすがは歴戦の猛者だと感じて、(これの始末は一筋縄ではいかないな)と、早速、持ってきた一升瓶を取りに立ち上がり、入り口で運転手の手塚を呼びトランクの酒を運び出した。

「やー皆さん。しめっぽいのは止めてどうですか、皆さんの労に答えて運んできたんです。お通夜の晩みたいでなんですか。ぐーといっぱいやりましょう」

一升瓶が配られて、
円座を組んでいる将兵の中央に小園はどしっりとあぐらを組んで座
「ここに座ってもい一かな」と、佐藤が話しを向け

「紹介したい。この人は民間人で、軍の輸送事業などを広くんだ。それに軍の顧問もやっいる。ちょうど車が手配できず安藤さんの車を借りて一緒にきたんだ」
小園はじろ・・と安藤を見て、紅顔でどっしりした体格と自信ありげな面魂に、
これはただ者ではないと感ずる。

安藤は軽く一礼して席に着く。
小園の発する威圧感にさすがは歴戦の猛者だと感じて、(これの始末は一筋縄ではいかないな)と、早速、持ってきた一升瓶を取りに立ち上がり、入り口で運転手の手塚を呼びトランクの酒を運び出した。

「やー皆さん。しめっぽいのは止めてどうですか、皆さんの労に答えて運んできたんです。お通夜の晩みたいでなんですか。ぐーといっぱいやりましょう」
一升瓶が配られて、

「司令、いかがですか上等の酒です。どうぞ遠慮なくやってください」と、
つかつかと小園の前に出て、コップを持たせて酌をする。
「さー皆さん一緒にやりやしょう」と杯を上げて音頭をとる。

安藤は宴会にはめっぽう自信があった。
日ごろ安藤は「宴会商法」とでも言う独特の才能を育ててきた。

「さー。いっちょう歌いましょうや」と、
18番の淡海節である。

船を引き上げ船頭衆は帰る、後に残るのは櫓とかいー。波の音よいしょこしょうー・・


佐藤と安藤は小園を挟んで席に着き二人で盛んに酌をする・・・


小園拘束

安藤には秘策の実行時期が気になっていた。

佐藤は安藤に目配せして(もういいいだろ)と合図が来た。

用意してきたのは薬である。
(安藤の手記には麻薬とあるが、おそらく睡眠薬であろう)
薬をコップに入れてそれに酒を満たして、
「さー司令、もう一杯、さあさあどうぞ、乾杯」
と、安藤も別の杯に酒を注いで一気に上げる。

しばらくして小園は泥酔したのようにぐったりして安藤に倒れこんできた。
これ幸いと安藤と佐藤の二人掛かりで小園を抱きかかえて、

「司令が酔われたようだ。介抱してくる」と同室の将兵に告げて別室に運び出すことに成功した。

小園司令は待ち受けていた軍医と憲兵隊に引き渡されたのである。
これが最後の厚木基地との別れとなろうとは想いもしなかったであろう。
運命の帳が下りたように・・・。

小園は、直ちに横須賀の海軍病院に運ばれていった。



反乱軍の首領小園司令は殺傷騒ぎも無く無事排除させれた。
刺し違いまで覚悟してきた佐藤大佐は、幸い命拾いをし、安藤に頼んだ「俺の骨を拾ってくれ」という事態は免れた。

司令を失った部下たちは状況の急変に戸惑いながらも士気を失い各自の思いで散っていった。しかしやけばばちになった連中は最後の反撃を機会を待っていた。不穏分子として基地に残りわずかな策を練っていた。武器を持った兵士による危険は排除されていない。
佐藤と安藤はその場を離れ

「安藤さんありがとう、お陰さまでうまくいった」
「やー、お互い様で、佐藤さんは死なずに済んだし、でも小園大佐はすごい人ですね。私は彼には敬服したと言うのが本音です。さすが海軍の英雄ですね」

「それでは佐藤さん、私はこれで帰ります。佐藤さんにはまだ重要な仕事があるんでしょう」安藤は早々に役目を終えたと挨拶した。
「安藤さん一寸待ってくれ、俺にはまだ難題が待っているんだ。アメリカさんを受け入れる準備が必要だ。一旦司令部に帰って報告し今後の対策を相談しなければならない。俺も今すぐ帰るから又送ってくれないか」

「ああ、いいですよ、お疲れでしょうからどうぞ乗ってください」
手塚の運転する41年型ビューイックは空色の車体を見せて待っていた。
「手塚、さーかえるぞ」
「はい」
「安藤さんついでにもう一度滑走路を見てみたいんだが」
「こんな夜中に見えますか?」
ヘッドライトに照らされた滑走路には無数に壊された飛行機の残骸が四散している。情報によれば、壊された飛行機は200機とも300機ともいわれ、車輪を壊されたりパンクさせられているもの、機首を地面に突っ込んでいるもの、後部車輪が無いものなど、とてもまともには動かせないものばかりであると言う。

特に重量級の爆撃機は始末が悪い。佐藤の頭にはこの惨状をどのようにして片つけるか。「半端なことじゃーないな」と一人つぶやいて頭を抱えていた。車は深夜の東海道を走る。

佐藤の考えはこの難題をまえに、いろいろと方策をめぐらしていた。

(このどさくさで如何にしてこの難題を解決するか?軍は解体された。警察は慌てふためいて各地の治安に手間取っている・・・肝心の基地の兵隊は復員を通達され ていて皆パニックのようになっている。基地の反乱排除の一策として、なんでも持ち帰っていいと通達したが、皆先を急いで物資を持って基地を後にしている。 それが裏目に出ていて今更組織を立て直せない・・)

ふと、隣に眠っている安藤の顔をみた。普段はうるさ型で民間の業者とも思えない業腹な男だが、仕事は確かだし、きっぷのいい親分だ。(俺は安藤とは長い付き合いで彼を誰よりも信頼してきた)

(そうだ。ここに安藤が居る。これぞ天の助けだ)。

厚木撤去作業 深夜の交渉

深夜の交渉安藤を揺り起こして、佐藤は、
「安藤さん、実は又折り入って頼みがある。起きてくれ」
「なんですか。もう私の役目は終わっているでしょう」
「実はな、基地の整備の問題なんだが」
安藤は(来たな、内心すでにこの整備の難題はそんじょそこらでは出来無い、俺の出番だな)とすでに読んでいたのである。

「佐藤さん俺も商売人だ。こんなことになろうとは読んでいた」
佐藤はさすが親分だ敵のほうが一枚上だと察し、

「どうだろ、滑走路は見ての通りだ。敵軍はどうしても厚木進駐を譲らない。期日は26日と決められているんだ」
「えー、佐藤さん今何日だと思っているんですか。もう夜中も過ぎ25日ですよ。26日の昼までにといえば、あと30時間ほどしか無い。無理ですよ」
「そこをなんとか頼む。これは日本の命運を握っているんだ。間違いがあれば天皇さまのお命に影響するんだ。安藤さん以外にこれをやれる人はいない。安藤さんを男と見込んでやってくれないか」
頼まれると弱いのが安藤の性格である。しかし、

「佐藤さん、時間も無い、危険極まりない。部下の命に関わる問題だ。今から幹部を呼んでおくから又家によって話しをしくれないか」
「ああいいとも」

(安藤も今度ばかりは即答を避けて、考え込んだ)深夜の仲原街道を引き返し多摩川を渡り、洗足池も闇に沈んでいる・・・・。

ーーーーーーーーーーーーーー
幹部との話を無事終えた安藤は、戻ってきて佐藤と席についた。
佐藤と安藤は一息いれて、

「安藤さん。ところでこれは仕事だ。いくらでやってくれるのか」
安藤はしばらく考えて、

「仕事はサシ(現金)でということにしてもらいた」
「当然だ」

安藤は黙って指を広げて、片手を佐藤の前に出した。
「うーんそうか。5万円か・・五十万か・・」
安藤は首を縦に振らない。
「なに・・五百万か」

「そうです。五百万円だ」

佐藤はギョッとして安藤を見た。
「何で又そんなに高い」

安藤はニヤーとして、
「佐藤さん。これは俺の部下の香典代なんだ。250人は集める。佐藤さん俺たちは軍人さんと違って、ここで死んでも犬死同様なんだ。何の保障も無い。それに仕事が正しいのかは今は分からない。だからどうあっても彼らの遺族を路頭に迷わせるわけにはいかない」「それが俺の責任なんだ。俺らは家族同様なんだ。それでここまできたんだ」
安藤は一言一言噛み砕くようにはっきりと言った。

しばし沈黙が流れる。佐藤は困った。しかし後には引けない。ケチなことを言えば連中の気分を壊してしまい作業は流れてしまう。
(えーい、今の日本の金なんぞ紙くず同様になるかもしれない。この場でひるんでどうなるのか)佐藤は腹を決めた。

「よろしい・・五百万円で日本が救えれば廉いものだ・・しかし二、三条件がある。今から海軍省に行って金を貰ってくる。その時が契約成立と言うわけだ。次に俺の命令に従ってくれ。現場の指揮は俺が執る。服従してもらいたい。危険を避けるためだ」

「佐藤さん分かりました。金をたのみますよ」
「安藤さん分かったが、別に作業代はどうなる」
「冗談じゃない、そんなけちな事は言いませんよ」

安藤一流の考え方で、250人の命代、一人二万円づつという計算だ。

事態はいよいよ安藤が主役として日本の危機に突入することになる。
佐藤は手塚の運転で司令部に送り出された。

幻の老僧


「おれは親様に合いに行ってくる」

これまで一人で闘ったかってきた抗争の喧嘩とは違って、全軍を指揮いる大将の立場だけに、重大な決断を前には、安藤は決まって川崎にある通称「宿河原のお不動さん」へ向かう。


妻正子は殺気立つ安藤の気持ちを察して、
「それがいいですね。親様がなんと言われるか」
と送り出す。
 
部下に待機させて深夜に秘かに家を出た。
寺の脇を通過する国鉄南武線があり、久地駅の近くで宿河原町にある。

溝口と登戸との中間にある。


通称「宿河原のお不動さん」と呼ばれている寺である。
師はこの寺の初代教祖でやせ身ではあるが眼光するどく、リンとした風格で近寄り難い威厳を発しっている。怖いもの知らずの安藤も、親様の前では身を低くして正座し頭の上がらない存在であった。

よく部屋の中で親様にたいする安藤が、叱られている子供のように「はいはい」と頭を下げて身をちじめていたものだ。

親様は深夜の訪問にも関わらず親様は法衣を身につけ安藤の来るのを知っていたかのように正座して待っていた。

「親様こんな夜分にすいません。実は厚木事件の解決に命がけの仕事をしなければなりません」

親様は先刻承知のようにうなずいていた。
おもむろに静かに威厳を発すると、

「終戦は、天皇様が決めたことぞ。だったらやるんだ。安藤様よ、お前ならきっと出きる。成功するんだ。そして日本を救うんだ」

(親様はすでに承知しておられたんだ)安藤は驚いたが、腹は決まった。親様の顔を見ると静かにうなずいておられる。勇気が湧いてきた。

「はい、親様、分かりやした。これから始めます。」

深く頭を下げて席を立った。

201206151345182bc.jpg安藤と寺との関わりは長いが、これまでも教えに従って繁栄を築いてきたものだ。世の中には、先の見えない経営者は多い。こんな時に教えを聞いたり、頼れる師がいるのはどんなにか心強いものだ。

この親様が安藤を一世一代の大仕事をさせる陰の演出者なのだと知るには、これからのさまざまな奇蹟的現象を見れば、分かってもらえると思う。今は寺のことを説明する時間が無い。新明国上教会

しかし安藤はここの寺との関係を他人には一切話をしない。家族にしか分からない秘められた関係なのである。

男として、事業家としてのプライドもあったのかもしれない。


厚木へ集結


8月25日正午過ぎ、
朝から大安組の作業員は動き出し厚木に集結を始めた。

安藤は佐藤との約束を期待しながらもあてにはせず、親様の「安藤さんやれ!あんたなら出きる。日本を救うのだ」この言葉に自信が出て暗示されたように全員集合を号令した。

総勢250人ほだがトラックに分乗し、トレーラー、トラクターを従え、全員の集合は午後4時を回っていた。

安藤は(よくも一日でこれほど集まったものだ) と決戦を前にした武将のように、満足そうに部下を見回り、幹部と戦略会議を開いた。

まず幹部らと現場の視察だ。昨晩は暗くて分からなかったが驚いた。

「なんだこれは。ひどいな。壊されていて容易に動かせないな」
滑走路には道路渋滞のようにびっしりと飛行機の残骸が投げ出されている。

昨日までは日本の誇る戦闘機、零戦、月光。爆撃機の彗星、銀河などがおよそ300機ほどあるだろう。それが反乱軍により機体を壊され、足が取られて傾いている。爆撃機はタイヤがパンクされている。尾翼を天に向けて前のめりになっているもの、翼が取られてものなど、かっては日本の空は守ってきた精鋭機までもが、無残な地獄絵を見せている。



安藤は自分の身が切られるようにこの醜態に痛みを感じて、思わず合掌した。彼らこそわが子を悼みように心を鬼にして傷心のうちにやったことだろう。

「こりゃーひどい。えらいものを引き受けてしまった」と、内心、しまった。
と思ったが口には出さなかった。

---------- 反乱軍 ---------------

 唖然としているところへ、反乱兵の一団が寄ってきた。
「貴様ら、何しに来た。責任者を出せ」

「海軍司令部の命令でここを片づけに着たんだ」
安藤が一歩前に出て答えた。

「貴様がボスか。そんなことはさせぬぞ!直ぐに引き上げろ。さもないとぶっ殺すぞ!」

安藤はむか!ときてこの野郎と向っていくところだが、
じっと我慢して

「兵隊さん分かりました。作業はしません。佐藤大佐がじきに来る筈ですからそれまで待たせてもらいます」と、何度も何度も頭を下げてなだめた。

(ちきしょう!てめいがたれた糞の始末をやらされるんだぞ)と、
ここでこれを言ったらお終いだと口をふさいだ。

作業は開始出来なくなっている。

「佐藤さんは遅いな。約束は金を受取ってからだ」
雨が次第に本降りになってくる。あたりは暗くなってくる。

「熊野。どうせ夜通しの仕事だ。班を組んで段取りをつけておけ」
「はい。社長、分かっています。夜中の作業は大変です。暗がりでは出来ません。明かりを使いたいがいでしょうか」

「あまり派手には出来ないだろうが、控えめにしてくれ。あいつらを刺激したくない。又向ってこられちゃ仕事にならない。佐藤大佐をまつんだ」


佐藤到着


安藤はあせる気持ちを抑え、
「なんでこう遅いんだ」とはき捨てるように言った。

佐藤が到着したのは7時を回っていた。
「大安組か、社長はいるか」
と大声が響き渡ってきた。

「佐藤大佐、安藤です。遅いじゃなですか!!」
佐藤は傘の下から顔を見せ、息を切らせてやってきた。

「やーすまん。毎度遅くてすまん。ちょっと話しがある」
二人は近くの小屋に入って

「大佐、なんですか。俺たちはすでに集まって作業を待っているんです」
佐藤の様子がおかしいのを悟った安藤は薄明かりの中、顔を近づけて覗き込んだ。
「実はな」と小声で話し出した。
「あれから海軍省で激を交わしてきたんだ。しかし・・」一寸間をあけて、

「約束の金が貰えなかった・・すまん。この仕事は・・」
「中止しろと言うんですか!」
安藤が声を荒げる。

「そうなんだ。この仕事をやっても払える見込みも無い。俺は大切な任務が果たせない」
佐藤は蒼白な顔を見せてはき捨てるようにうつむきながら
「仕事を中止してくれ、俺の最後だ」
と言って、懐から拳銃を取り出した。

「おいおい。一寸待ってくれ。死ぬのは待ってくれ」と、
安藤は佐藤の腕を取って抱きかかえた。

「佐藤さん。中止と言って後を誰がやるんですか!」
安藤は声を高めて食い入るように佐藤をにらみつけた。

「誰もいない・・!」
佐藤はここは一か八かだ。と安藤を見上げて
「俺は払えない。しかしどうにでもしてくれ。社長に任す」
一途の希望はこの場で安藤が作業をしてくれるのを祈った。

「佐藤さん待っていてくれ。相談してくる」
佐藤をその場に残して暗闇に消えていった。

金払いの悪いのは今に始まったことではないが、桁違いの大金だ。
安藤は内心こんなこともあろうと予測をしていたが。安藤は熊野らを集めて、
「遅くなったが、今大佐が来て・・金が払えないと言い出した」一同は顔を見合わせた。
「作業を中止しろと言っている」
真っ先に熊野が口を切った。
(熊野益次。私はよく可愛がられ肩車をしてもらった彼のぬくもりを感じている)

「親父。誰か他にこれをやるやつでもいるんですか!?」
「いや、いない。そこで相談だ」
「これをやらないと、日本が危ないってことでしょう?」
一息入れて
「そうなんだ。俺はお前らの命を預かっている。危険に身をさらせるのに・・」
「親父。待ってくれ。俺たちは親父に預けた命だ!それよりここで引くわけには行かない」
「なー皆」と熊野は仲間を見渡して言った。

「親父。金は親父が損すればいい。俺たちは命の一つや二つ、どうでもいい」
「どうだ皆。そうだろ。やろうじゃないか!?」熊野が声を高めて言い切った。
「そうだそうだ。これまで親父に世話になってきた。いまさらけちなことは言えない!」

「親父。聞いたと通りだ。アメリカのやつらは着陸できない。
 俺たち以外に誰がやるってんだ!」

 安藤は熱いものがこみ上げてくる。

「そうか。分かった。ここで引くわけにはいかない。その気持ちは俺も同じだ」
「みんなやってくれるか!」
「親父やろう!!」と、

歓声が上がる。
腹は決まった。


厚木事件/深夜の突貫作業

その日、厚木基地では、パンパンと威嚇のためか、反乱兵から発砲が時折聞こえるような、緊迫した空気が張り詰めていた。

安藤明率いる大安組の作業員は、その不気味な空気が流れる中、飛行場中にばら撒かれたゼロ戦の撤去作業を始めた。幸い作業員には、鉄砲の音などが聞こえないようで作業は開始された。



(谷間に投げ出された飛行機の残骸)

先ず、小型の戦闘機を滑走路からトラクターで引っ張り出して排除し、重量機を運搬するための道を作った。

コンクリートの滑走路では壊れた飛行機でも動かすことは容易だが、隣り合わせいる芝生に入ると、雨でぬかるんでいることもあって簡単には動かない。

しかし彼らは重量物運搬のプロだ。飛行機の後部にロープをつけてサケの尾ひれに紐をかけ吊り下げるように、後ろ向きに引きずり出して周辺の谷に突き落とす。

ここが飛行機の墓場となっていく。
厚木基地に飾られている、アメリカ軍が偵察で撮った航空写真の中には、その当時の飛行機の残骸が移っている。


戦闘機はなんとかなるが、爆撃機はそうはいかない。

「飛行機を壊して運べ」熊野が叫ぶ。
「羽根をもぎ取れ。足を外せ」
安藤が指示に行く。

「かまわない。二本のワイヤーを飛行機の翼に縛りつけ、二台のトラクターで引いてみろ」
翼はメリメリと悲鳴を上げてちぎれていく。

車輪を壊して胴体だけにすると大きなオットセイのようにむっくりした機体が滑りやすくなり、ゆっくりと寝た子を布団ごと移動するように動いていく。
「それ引っ張れ。気おつけろ。胴体が転がってくるぞ」

掛け声をかけていた安藤が、そのワイヤーに足を取られて泥たまりに後ろ向きに大きな体が投げ出された。

疲労から安藤は一瞬気を失う。暗闇に安藤の姿が消えた。と、メリメリという音にはっと、目を覚ます。巨体が迫ってくる。と、近くにいた工員が、

「この野郎!今から寝てやがって誰だ」
「なーんだ。親父じゃないか。もうすこしで潰すところだった。あぶねー危ねー。親父はあっちえいって一杯やってな。ここは任せてくれ」

安藤は部下の思いやりにポロポロと涙が出て止まらない。

変わって安藤は格納庫で炊事班の作ってる食事の配給に回る。車に積んで運び配って歩く。
「気おつけろ。頑張れ」まるで戦地の炊事班のよう闇の中を懐中電気一本を頼りに激励に回って歩く。
皆、「せーの」。と声を合わせて引いていく。
けが人も出始める。
救護班が飛んでいく。しかし誰も弱音を上げずに進めていく。作業は急ピッチに進んでいく。時折バリバリと大きな音を立てる。
重量機が二つに裂けていく。大型爆撃機は、四本のワイヤーをトレーラー四台で引き裂く。高音と共に壊されていく。

「大丈夫か。無理するな。あわてるな。頑張れ」
安藤は傍らで激を発し給食を配った歩く。男たちの勇壮な戦いが、夜を徹して土砂降りの中、汗まみれになって進めていく。

時は8月の26日。
夜とはいえ真夏の暑さと体温の暑さで、男たちの体からは湯気が上っている。
まるでアリの群れが、手足のないカブトムシの胴体を引きずっていくようだ。
飛行機は徐々に引かれて谷底に突き落とされていく。
ガシャン、ガシャンと音を立てて墓場となった谷が埋まっていく。


真夏の夜明けは早い。薄明かりの中を見渡すと、すでに半数近くが片付けられている。皆,ろくに休憩も取らずに必死に作業をしてきた。
次第になれてきて順調に進んでいる。昨夜来の雨は次第に小降りになっているが、風は厳しくなっている。

天気予報は台風の接近を告げている。
「社長。どうだろう。この分では予定の昼ごろまでには完了するだろうか」と,
佐藤は連合軍から通告されている期日を気にしながら言った。

「しかし佐藤さん。昼の日中に作業するのはどうかな?反乱軍を刺激して危険ではないかな」

このように厚木基地での突貫作業は進んでいった。


2016年8月10日水曜日

歴史的会見

この歴史的会見は、昭和20年(1945)9月27日、アメリカ大使館で行われた。
実GHQから会見に先立ち陛下はお忍びで来てもらいとの強い要請があった。

宮内庁は陛下の警護が出来ないと動揺したが、要請にしたがってパトカーの先導なしで皇居を出られ、御用車に陛下と藤田侍従長が、あとの車に石渡宮相、徳大事侍従、村山侍医、奥村通訳などが続き、一般車と同様に信号待ちをされながら虎ノ門のアメリカ大使館に着かれた。

警護のない異例の行幸はこれが初めてであろう。歴史家の半藤一利氏によれば、陛下の運転手の回想が記載されている。乗客は高級な御用車を見て中を眺め、ハッとして敬礼していた人もいました。なるべく都電に近寄らないように注意しました。お上は視線は横を見ておられましたが、お顔は正面を向いて無言でした」とある。

陛下がこの後、いかに勇気ある決断と行動をなさった。それが分かるにつけて、
この車中のご心中を察するには余りあるものがある。

アメリカ大使館の玄関の前には、フェラーズ将軍とパワーズ少佐が出迎えた。

天皇と元帥の会見後の日米の報道は、アメリカ、ニューヨーク・タイムズ紙(1945,10、2)によると、

天皇は、
「マッカーサー元帥が占領時、一件の事故もなく占領が遂行されたことに感謝する」
と述べると、
元帥は、

「円滑な占領は、天皇のリーダーシップのお陰であり、いかなる流血ももたらさなっかたことについて感謝する」

と述べた。

さらに両者は、日本本土への武力侵攻が行われていたならば、日米双方に多大な人的損失と、日本の完全なる破壊がもたらされていただろうという点で、意見が完全に一致した。

厚木の反乱が表面化されずに済んだことが重大な視点となっていると考える。

一方日本側は、陛下は戦争の開始について
「自分としては極力開戦を避けたいと考えでありましたが、戦争になってしまった結果を見たことは、自分の最も遺憾とするところであります」と述べられた。

これに対してマッカーサー元帥は、陛下の立場を理解した上で、

「おそらく最後の判断は後世の歴史家および世論によってくだされるのを、待つほかはないでありましょう」

と述べられた。

当時の公式報道としては突き詰めた議論がされたことを避け、当たり障りのない内容にされたのである。

しかし事実は極度に緊迫した両者の会談内容が次第に明らかになってい来るのである。
新生日本の原点に陛下の不惜身命のご配慮が明らかになってくる。

親さまのお告げ

安藤は帰路秘かに、宿河原のお不動さんを訪ねた。命がけの大仕事を無事成し遂げられたのはこ不動尊のお陰であると信ずる安藤は、教祖親さまにお礼と報告に参上した。

親さまは寺の本堂の裏の倉庫で米の取り入れの準備に忙しそうにしておられた。

「親さま、ありがとうございます。厚木はお陰さまで無事に完了できました」
安藤の挨拶を聞くともなしに聞いてから親さまは、

「天皇様が大変なことになるよ。お前が助けるのだよ。お前は天皇様とマッカサーを助けるのだよ」
と他人事のようにつぶやいた。

安藤は「へへーー」と狐につままれたような面持ちで親さまの顔を見ると、

「お前様がやるんだ」
とまたポツンとつぶやくのである。

親さまがまた妙なことを言っている、とあまり気にも留めず安藤はその場を跡にした。
その後、安藤は多忙にまぎれすっかり忘れてしまっていた。

終戦となると、戦需景気に乗ったどさくさのような仕事は終わり、これからの仕事をどうするか、社員は2万5千人にも膨らんでいた。

厚木基地無血進駐実現

マッカッサーが到着するまでの緊迫した日米の思惑と経過があった。
この一触即発の危機が、如何にして避けられたのか、その舞台裏にせまっていく。

本題に入る前に、基地に到着した米軍の先遣隊の状況を見てみよう。
基地受入れの特使の将校からの話によると、

渦中の人は、海軍大佐、佐藤六郎氏がその特務を果たすため、昭和20年8月28日(当初の予定日26日は台風で延期)整備された滑走路で受入れの準備も出来て、到着を待っていた。

この日の風向きから予想される飛行機のランディング(着陸)にあわせて、臨時のテントを敷いて待機していた。

午前7時30分、四発エンジンのC46輸送機が13機、厚木上空に巨大な姿を現わした。やがて滑降体勢に入り、驚いた。

見ると風下に向かって次々と滑降し滑走路の向こう端に機首をこちらに向けて止まった。飛行機は通常、離着陸の時には風上に向かって行うものなのだ。
佐藤大佐は、

「ちきしょう!やつらは俺たちの攻撃に備えて、離陸体制を敷いていやがる」
あわってて車に白旗を掲げて彼らの飛行機に向かった。

見ると、数人の兵士がすばやく飛行機から降りて自動小銃をこちらに構えている。
近ずくと、どの目も殺気立ってこちらをにらんでいる。

「俺たちもびくびくもんだが、あいつらを見ろよ。小銃がぶるぶる震えているぞ」
やがて我々が空手あるのを確認して、司令官らがタラップからそろそろ降りてきた。

全滅を覚悟で派遣された第一陣の司令官は長身で精悍な面構えのチャールス・テンチ大佐である。
しばし沈黙が続き、佐藤大佐の指図で滑走路の反対側にあるテントへと案内した。
テンチ大佐以下数人は迎えの車に便乗し、テントに入ってきた。
我々の歓迎の姿勢が次第にわかって到着確認の書類を交換し、今後の連合軍本体の受入れについて協議を開始した。

この進駐作戦の間、相模湾からは150の上陸用舟艇に13000人の海兵隊が上陸し、戸塚の横鎮基地に集結し、横須賀に向かった。
B29全機が米軍基地から、東京始め日本の主要都市へ爆撃準備をしていた。

2日後、8月30日、マ元帥は到着後直ちに横浜に向い、グランドホテルに臨時の本部を置き占領政策の開始となるのである。

この世紀の無血進駐は世界に広く速報された。

「狐につままれたように」と言わしめた「なぞ」のような無風状態での進駐であった。
無血進駐と言う予想外の結果は後に日本占領政策に重大な成果を持ちきたしていくのである。

武将マ元帥の賭けは外れたと言っていいだろう。

武力進駐となれば高圧的に有利に占領政策を進められると考えていたとしても不思議ではない。無血進駐を実現させた「なぞ」の背景はなにがあったのか。

ここに二人の人物を登場させることになる。
ひとりは、先に述べた佐藤六郎海軍大佐。

そうしてもう一人は、大安組社長安藤明だったのだ。


日本海軍最後の感謝状

感謝状海軍省から電話があり、厚木事件の作業代金を支払うといってきた。

呼ばれた場所では目下重要な会議中だという。安藤は内心、「ふざけるな、人を呼んでおいて会議中もないもんだ、またやられたか」 と不機嫌にその場所へ赴いた。

構わず会議室に入ってみると上座に偉そうな人が立っている。
ちょうど二人の目が合ったが、その方はこちらを見てニコっと笑みをしてくれた。
佐藤大佐はその方に最敬礼をして安藤を押し戻して部屋を出てくると、

「このたびは本当にありがとう」と再開の握手を交わすと
「この方は高松宮様だ。お話しを頂いているのだ」と言う。
なるほど写真で見たことのある方だと分かった。

実はこれが安藤にとって高松宮との初対面であるが、このあと運命が二人を結びつけることになろうとは分からないものである。

佐藤大佐は、米内海軍大臣の英断で例の工事代金500万円を支払うと言うのだ。
そして大臣の秘書官の庵原大佐に面会すると、
安藤さん、少し負けてくれませんか」と言う。
「ええーいいでしょう。海軍も大変でしょうから半額に負けておきます」と。
半ばあきらめていたのだからと、大見栄を切ってしまった。
そして感謝状と共に250万円を頂いたのである。
この出費は戦後処理第一号として出費されたのである・。

日本海軍最後の感謝状であり、安藤家の唯一の宝であるが、安藤は「真珠湾攻撃にも勝るとも劣らない功績であった」と言葉を添えられて頂いた。(平成18年当時の換算で、250万円は約5億円-に相当する金額である)

感謝状:

「終戦時連合軍の進駐に際し厚木飛行場急速整備に付多大の障碍を克服し短時日に之を完成したる異常の努力に対し茲に感謝の意を表す」

昭和20年8月26日
海軍省軍務局長海軍中将保科善四郎
株式会社大安組殿





2016年8月9日火曜日

親さまのお告げ

安藤は、早速親さまにお礼の挨拶に参上した。

「親さま、お陰さまで大金を頂きました。ありがとうございます」
「せっかくですから、本堂の新築に寄進させてもらいたいのですが・・」
と、進言すると、親さまはきっぱりと断り、

「安藤さまよ、お前さまの志はありがたいが、本堂などは10年後でもいいだ。だが、安藤さまよ、お前さまには明日から腹を据えてやってもらわねばならない仕事があるだ。
その金はそっちに使うだよ」
と、言ったかと思うと、ぎろーと安藤を見据えて、

「さー安藤さまよ、いよいよ金を使うときが来た」
未だかって見たことのない鋭い眼光で安藤をにらみつけると、

「やるか。安藤明!」
 と叱咤した。

              「へへー」 と、びっくりして親さまを見上げると、次の言葉が降ってきた。
親さま
「お前は天皇様を救うのだ。日本を救うのだ。よういか分かったか」


びっくりしながら厚木の帰路の親さまの言葉を思い起こし。

「そんことおっしゃても私にはさっぱりわかりません・・」と身震いしながら言葉を濁すと、

「近く、天皇様にとってもマッカサーにとっても都合のいいアメリカ軍人に会えるだ。その人とよく相談して協力してもらうのだ。そして日本を救うのだ」



更に続けて

「また経済的協力者もきっと現れる。心配するな。お前にはそれが出きるのだ。天皇様を日本をお前は救うのだ」

更に声高に

「よいか安藤、分かったか!」

安藤はうつむいて頭を垂れ、なにやらさっぱり分からないが親さまの威勢に圧倒されていた。
しばらく間を空けて、

「安藤、やるだ。必ず成功するだ。--しかし安藤、その後には神も仏もナイ悲惨な最期が待っているだ。それをよーく覚えておけ。そのときこそ心から神を祈るのだ」

まるで不動明王が眼前に立って見下ろし安藤を睨むのだ。

「へへー」と頭を下げて早々に立ち去った。

青天の霹靂だがはたしてどうなるのかさっぱり分からない。

会見後記


会見は11回も行はれ、マ元帥は、

「天皇との初対面以後、私はしばしば天皇の訪問をうけ、世界のほとんどの問題について話し合った。私はいつも、占領政策の背後のあるいろいろの理由を注意深く説明したが、
天皇は私の知るどの日本人よりも民主的な考え方をしっかり見につけていた。
天皇は日本の精神的復活に大きい役割を演じ、占領の成功は天皇の誠実な協力と影響力に負うところが極めて大きかった」

と回想している。

ここに豊下楢彦の著書「昭和天皇・マッカーサー会見」がある。
著者は当時の日本を取り巻く国際環境から、会見の真実性を追究して詳細に会見内容を検証し、天皇がとったマッカーサーとの頂上会談が第一級の政治行動であったことを評価している。

そして戦後、このままでは日本の防衛が危ういとして、日本の安全問題にまで触れ、
如何にして守るべきかマッカーサーに迫っていることを明らかにし、水面下での天皇外交の成果を示している。

さらに文中には多くのエピソードや談話を記述しているが、とりわけフェラーズ・メモを紹介しているが、

「天皇は、日本人の先祖の徳が宿る民族の生ける象徴である」
「天皇を戦争犯罪人として裁くことは、不敬であるあるばかりでなく、精神の自由の否定である」
「米軍の無血進駐と日本軍の武装解除に果たした天皇の役割を高く評価する」

とある。

安藤が出会った側近のフェラーズ将軍が、いかに親日派であり元帥への強い影響力を感じるのである。

偶然とはいえ、安藤明が会ったこの将軍が、元帥へ影響を与える最適任者であったのだと驚いた。
又文中に出てくる「天皇による無血進駐」が多大に評価されている表現を見るにつけ、
もし厚木事件が無事に解決していなかったら、天皇制護持のシナリオが根底から崩れてしまっていたと、背筋の寒くなるのを禁じえない。

安藤の活躍も厚木事件の成果にしろ、これらの結果が明らかになるにつけ、生前の安藤は知ることはなかったのだ。

晩年、凋落した悲惨な家庭生活の反動として遺族である私たちは、父の業績を余計なことをしてしまって・・と愚痴をこぼしたものだった。

そんな父が手記を克明に残した理由は、子供たちには真実を知ってもらいたいという、
親としての切ない願いがうかがえた。

安藤明の業績の結果が明らかになるにつけ、新生日本の黎明にきらめくダイヤモンドのように、さんぜんと輝いてくる成果であった。
「よくやったね」という賛嘆でもある。

「親父は、戦後の120日間のために生きたんだな」とよく言われるが、
8月15日天皇による終戦の詔勅の後、
8月25日から始まった厚木事件、一ヶ月後には「天皇とマッカッサーの会見」
これから紹介する12月25日の「クリスマスパーティ」までのことなのだ。

歴史家や、学者は天皇制の護持は、「マッカッサーが天皇の無私な徳に感動して決定された」というが、
事態はそんな簡単なものではなく、新憲法の制定、東京裁判での判決過程を経て確立していくが、とりわけ安藤が陰で活躍する秘策が功を奏するのである。

2016年8月8日月曜日

マッカーサー元帥の苦悩


当時、ワシントンはトルーマン大統領が日本の占領政策に関して、各連合国への配慮もあって、非常に流動的な状況にあった。

日本に勝利したアメリカ連合軍司令長官マッカーサー元帥は、アメリカ本土では英雄として国民の賛嘆を一身に受けていた。ましてや日本占領の経過が、日本本土決戦にならずに無血進駐が実現できた事にたいして、高い評価をしていた。

しかしワシントンでは元帥の役目は、日本への侵攻と占領が実現できた時点までで、
ここで彼の役目は終了したとして、アチソン国務大臣が次のような声明をだした。

「占領軍はあくまでも政策の道具であって、政策の決定者ではない」
戦闘の最高司令官であっても、日本の占領政策の為政者ではない。


そこへGHQが宮城前の第一生命ビルに本拠を移した1945年9月17日に出された
マ元帥の声明文が大問題をもたらしたのである。要約すると、

(円滑な占領政策の進行を計る過程で、駐留軍の削減を打ち出し、40万人を20万人に減らす)という内容であった。

ワシントンでは寝耳に水でったとして突然の声明に困惑し、マ元帥に一時帰国命令を出した。元帥はこれを拒否、しかし大統領は今後の占領政策を彼に独断専行させまいと、
10月19日(天皇との会見前)帰国命令を出すが、

「日本の管理に関する政策は、ワシントンよりも東京において形成されるべきである」
として拒否。
これはシビリアンコントロールを主眼とするアメリカの基本問題に関し、ワシントンとマ元帥のダブル・スタンダードであるとして、両者の間で永い抗争に発展していくのである。

凱旋将軍としてマ元帥は次期大統領候補ともうわさされるなか、天皇問題をめぐる
日本の複雑な状況に扮装し情熱を注ぐのである。

戦争が継続されている中、突然の終戦宣言に驚いたのは日本軍のみならず、
連合軍もワシントンも勝利に酔うどころか、占領政策の推進は至難な状況だったと推測される。

この状況に危惧したワシントンは急遽、「極東委員会」を設置して(同年12月)
マ元帥の監視役と政策の為政者として派遣されることが内定した。

とりわけマッカーサーがこの委員会の派遣前に、天皇問題の解決と憲法改正に向って切迫した状況になっていくのである。

2016年8月7日日曜日

天皇訴追



マッカーサーが予想に反して会見で見せた天皇の犠牲的な意思表示にたいし、驚きと感動を受けたものの、会見の内容を公表しなかった結果からして、天皇を取り巻く環境は益々厳しくなっていった。


とりわけ、マ元帥はワシントンとの対立があって、天皇問題を早急に解決するべく追い込まれていた。



アメリカのワシントンポスト紙が伝えた全米の世論調査で、(1945年6月29日付)天皇の処遇にたしては、

処刑        33%
裁判にかける  17%
終身刑     11%
追放       9%
傀儡にする    3%
何もしない    4%
無回答     23% 


と約70%が天皇の戦犯訴追を要求していた。

さらにニューヨーク・タイムズ紙は「天皇制は廃止されるべきである」と述べ、
他の有力紙も「あの帝システムが温存されいる限り、太平洋には平和は決してありえない」と。

中国からの非難も多く、
「天皇と天皇制は排除されるべきだ」「中国は裕仁を戦犯第一号として罪を問われるべきである。決して許すことは出来ない。処刑して南京の孫文通りにさらされるべきだ」と過激な報道も紹介されている。

英国では、
「天皇の大権を残す限り、また侵略を始める可能性がある」
オーストラリアは、
「天皇は責任を取るべきである」

「中国で日本軍が使用した残虐な細菌兵器が天皇の命令によるものだ」として訴追を強行に求めていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/731%E9%83%A8%E9%9A%8A

この残虐極まりない非人道的な戦禍について、マ元帥は天皇にとって最も不利な証拠となるとして、この事件の公表の是非に対して苦慮したのである。

この事件の重要性をかかげるソ連にたいし、マ元帥はこれがソ連に「漁夫の利」を与える結果となることを憂慮して、幸か不幸か不問に帰す行動にでたのである。

実は、伏せられたこの事件が、天皇不起訴への重要な問題点であったことはあまり知られていないのである。

安藤が後に演じるGHQ高官との問答で、この細菌兵器の問題を詰問されたくだりがある。

これらの天皇訴追をめぐる世界の環境はますます厳しさを増していったなかで、
安藤に課せられてくる第三幕は、天皇制護持のために尽くす破天荒の行動が始まろうとしているのである。

これが天皇制護持を決定づけるマ元帥の天皇不起訴への決断へと進んで行った。



2016年8月6日土曜日

昭和の鹿鳴館 大安クラブ創設


このような背景の中、安藤は、天皇を守り戦後の日本を守るべく、昭和の鹿鳴館とも呼ばれた、大安クラブを設立し、アメリカ高官の接待クラブでの破天荒な活動が始まるのである。

大安クラブ正面天皇の起訴をめぐる諸外国の厳しい要求が高まる中、フィッシャー大尉は安藤と連日に渡りGHQの動きを察知して、なにか秘策はないものかと協議を重ねていた。

「天皇問題に直接関係するセクションの専門武官を呼び出してあげるから、そこで天皇制護持を訴えてみよう。マ元帥の取り巻きから崩すのが肝要だ」
フィッシャー大尉の助言である。


大安クラブ正面


「至急そのための接待場所を設けて欲しい。そのうち米軍人が日本人による酒食の供応は出来なくなる」

安藤は松前総裁や相談役の津雲国利(東京青梅の殿様と言われる国会議員)等とも相談してある料亭を買収する。

東京銀座の奥座敷は築地の魚河岸市場からの新鮮な魚貝類の入手可能な地域で、幾つかの料亭が軒を並べる。築地郵便局の裏にある静かな通に面した「分けとんぼ」という300坪ほどの木造の料亭だ。

ここを松前の口沿いで当時30万円で購入した。

「天皇とマ元帥の会見」(9月27日)が済んで間もなく、10月始めアメリカ式クラブとして米軍人専門の会員制クラブが発足するのである。

それが「大安クラブ」である。

フィ大尉と関係者
フィ大尉と関係者
部屋数は大小20あまり、室内は外人好みの調度品で飾り、女将として安藤が懇意にしていた大森のある料亭の女中頭をしていた北村トクを呼び寄せた。

「この玄関脇が私の部屋で、大広間があって、離れがあって、奥の広間には20人ほどの女が寝起きをしてました。一番奥の部屋は15畳ほどあって社長の居間でした。」

「社長がこの奥の間で外人と話しをするのですが、私は次の間に控えていていましたから、どんな話しがあったかは分かりません」

トクは忘れもしない当時を鮮明に覚えていて、
「とにかく茶碗一つ、お皿一枚から集め始めました。三越、松坂屋などの古道具売り場に通い高級品を買い揃えました。女の子を集めるのも当時松坂屋の地下にダンスホールがあり、外人好みのいい娘を引き抜いたのです。
社長からはいくら金が掛かってもいいから、背の高い別ぴんを揃えろ、と言われました。
芸者からお女郎上がりの娘も加え30人ぐりになりました」
と話してくれた。

「開店までに一ヶ月ほどかかりました。女の子の中にはシラミ退治から始めました。
派手な模様の振袖を着せてようやく開店にこぎつけました」

フ大尉は毎日GHQの高官を招待し、多いときは2、30人にもなったという。
「だれかれ見境がつかなくなっていても、客からは一切お代をいただかず、中には女の子と寝る人もおりました。おまけに土産まで貰って夜遅く帰っていかれました」

「社長は客の肩書きや接待の意味をうちあけてはくれませんでした。すべてが秘密でした。何のためにこんな豪華な接待をするのか分かりません。
私は毎日プレゼントを買うために銀座のデパートや店をあさり、どのくらいお金を使ったか分かりません。プレゼントの費用だけでも当時のお金で1000万円はつかっているんではないですか」

かくして大安クラブは誕生した。
大安クラブ正面と、多くのアメリカ軍人の名刺

そこで繰り広げられる親善外交の中で、ある秘密会議が行われた。

安藤の手記によると、その秘密会議は、GHQからの情報として、
「ソ連の主張は、あくまでも天皇を退位させ戦犯として裁判を要求、国際法違反の細菌兵器使用の責任を、人道上許せないとすこぶる強硬である。それに対する試案として、天皇を形式的にでも追放する意見が態勢をしめている」と言う。

安藤がそれは困る。と応酬すると、
「逮捕されて刑務所へ送られるよりは良いではないか」
といってアメリカの世論調査の記事を見せてくれた。

安藤はその時の情勢について、
「当時の米軍は、天皇問題とともに、無血進駐の継続と、日本の治安維持が最大の問題であるとした状況に狼狽し、さらなる秘策を練るのである」と。

そして、昭和20年(1945)終戦の年の12月25日に大安クラブで盛大なクリスマスパーティーを開き、GHQ高官を招待して、一世一代の大芝居を打つのである。


2016年8月1日月曜日

「焼け跡のクリスマス」(昭和56年4月26日、テレビ朝日)

熱烈な天皇主義者であった安藤明(新克利)は、1945年、敗戦後の混乱の中で、運送業などで次々と富を得て、成り上がる。やがて、料亭に米軍高官を呼び、天皇制維持の演説を日々行うようになっていった。だが、ささいな罪で逮捕された安藤は、みるみる没落…。そして失意のうちにこの世を去っていった。日本のアル・カポネといわれた安藤明の生き様を描く。【以上、テレパル1984/04/21号より引用】

テレビドラマデータベース


昭和56年(1961)4月26日。テレビ朝日は「焼け跡のクリスマス」と題して2週に亘って安藤のことを放映した。これは松本清張監修によるものである。

「世の中にこの男を知る人は少ないであろう」と前置きして、
厚木事件から始まって大安クラブでの米軍将校を懐柔した疑惑の秘話を天下に知らせた。

ドラマのおわりにあたって松本清張は、

「かくして安藤の功績もあって、マッカーサーが天皇制を存続させる代わりに、憲法第9条の戦争放棄を押し付けて、日本が再び軍事強国とならないための、いわばさし違いの条項である」とも発言している。

昭和20年といえば終戦の跡生々しい東京が焼け野原の時であり、そんな「亡国の淵」に立っていた時期にアメリカ軍高官を招待して豪華に、クリスマスパーティを開くのである。

昭和20年10月に、フィッシャー大尉から「天皇が起訴されそうだ」との情報が飛び込んでくる。

「天皇問題に直接関係する専門係官を呼び出してあげるから、そこで天皇制護持を訴えてみよう。至急そのための接待場所を設けて欲しい。そのうちに米軍人が日本人宅や料亭での酒食の供応はうけられなくなる」
といってきた。

そこで急遽料亭を買収して大安クラブが設営された。

そこへフィッシャー大尉に連れられてある大佐が、アメリカでの世論調査の係数表を持参して、天皇処刑が70%にも達しているとして、すくなくとも天皇が追放される事を示唆された。

事態の危機を感じた安藤は、松前と高松宮を訪問してこの事のお伺いを立てた。
宮殿下も

「私たちは、たとえどうなっても構わないから、兄君陛下だけは救って欲しい」
と申され

「我々は殿下のご心情を察し、深く決意を固めて引き下がった」

と安藤は言うのである。

松前とは更なる秘策を練り、
「安藤君。私も出来るだけ援助するから、頑張ってくれ」といわれる。

安藤の歓待攻勢はますますエスカレートして、フィッシャー大尉はGHQの高官を次々と呼び寄せて大判振る舞いをするのである。

クラブに来た高官は、ダイク代将、フェラーズ将軍、ホイットニー将軍、ケージス大佐、バンカー准将、フェーリン憲兵司令官など、それに東京裁判の主席検事キーナンも客であった。

大安クラブ正面
大安クラブ正面

マーク・ゲインの「ニッポン日記」には、大安クラブについて以下のように記載がある;

「私が安藤明のことを耳にしたのは、1946年(昭和21)2月、米軍諜報部隊のある大尉からだった。あの男から目を離さないようにしろ、彼は暗黒街とつながりをもっている。だが同時にまた、日本の皇族やマッカーサー司令部の将軍たちとも近づきになっている大物なんだ。

私の聞いたところでは、アメリカの将校たちが、安藤が「大安クラブ」と呼んでいた一流の施設にしばしば歓待を受けていた。このクラブは営利を目的にしたものではなく、料理も酒も女もすべてクラブ持ちのもてなしだった。

安藤は同時に多くの宴会を掛け持っていて、主人役をつとっめていた。
安藤は客人たちに、自分は日米親善の献身的な信奉者だと説明するそうだ。
これは明らかに、日本側のぬかりなく組織された謀略の物語である。(ゲインの誤解)
その武器は、酒、女、歓待であり、その目的は占領軍の士気を破壊することにある」

そのマークゲインは安藤を会社に訪ねた。
社長室で会った安藤の印象を、

「安藤は、がっしりした体つき、一部の隙もない身なり、自信にあふれたる堂々とした白髪頭の男である」

さらに案内されたクラブでは、

「内部の様子はかねて聞いていた通りだった。部屋は広いし、調度品も申し分ないし、その上接待に当たる一団の女性はいずれも若くて美しく、その手には安藤から贈られたダイヤモンドの指輪が光っていた」

「女たちが料理を運んできた。エビフライはまるで口の中でとろけるようだった。
子牛の焼肉、ヒナ鳥のぶどう酒漬け、新鮮な刺身、漬物などの日本料理。
どれも私が日本で味わったことのない最高のものだった」

「安藤が6週間で4百万円を使ったという報告を、私はようやく理解しかけてきた」
「日本の人形といったありったけの贈り物。その人形は全部まさしく生きていた」
と記者らしい鋭い観察眼で表現している。

この時は、マークゲインが安藤を悪の枢軸とか、日本のアルカポネともとんでもない誤解したのであった。

しかし彼が安藤の死後、1966年(昭和55)再来日して、安藤の大安クラブでの歓待は日本政府の一機関ではなく、安藤個人の慈善行為であった事実を知り、その誤解を解くと共に、金科玉条のよう清廉潔白な偉業であったと分かったのである。
それに投獄から続く晩年は悲惨な生涯を閉じたと聞き、

「彼が、わが世を謳歌した栄光の日々は、跡形も無く消え去り、私は悲しいかった。
なぜなら、降伏に先立つパニック状態の数ヶ月とそれに続く終戦直後の時期に、東京で起こったことを記録しようとした歴史家が未だにいないからである・・」と
安藤に惜別の念を贈ると共に賛美をしてくれた。

そんな安藤の「わが世を謳歌した栄光の日々」にゲインにも知られていない舞台が、終戦の年12月25日に開かれたのである。