2016年8月15日月曜日

安藤 明

                     
安藤明とは
安藤明とは 
天皇・マッカーサー会見
天皇・マッカーサー会見
厚木事件
厚木事件 

安藤明(1901年/明治34年2月15日~1962年/昭和37年8月15日)は、戦後日本の繁栄の基礎を築いた功労者で、人間として大きな犠牲の精神という徳を持った模範的人物です。天性のビジネスセンスを持ち勝気で不屈の精神を持ち、運送業・建設業で大成功をおさめ、その財力を持ちいろいろな形でアメリカ占領軍GHQと個人として交渉し、マッカーサー来日の際の決死の厚木飛行場準備、天皇とマッカーサ-会見の実現、等を通し戦後日本の繁栄の基盤をつくりました。

このブログでは、そのような安藤明の知られざる活躍・功績・日常などを、安藤ファミリーが紹介して行きます。安藤明長男にあたる安藤真吾のブログやその他出版物からの引用を用いて、これからも少しずつ情報をアップしていきます。よろしくお願いします。

YOUTUBE /フィクサー列伝 安藤明

安藤明に関するお問合せは:
andoshingo23@gmail.com (父安藤真吾)
andotoshi23@gmail.com(寿英)までお願いします。

2016年8月14日日曜日

「ザ・スクープスペシャル 終戦企画」 緑十字機 決死の飛行



2016年8月14日(日)14時~15時30分
「ザ・スクープスペシャル 終戦企画」
太平洋戦争 最後のミッション
緑十字機 決死の飛行
-誰も知らない 空白の7日間ー


YOUTUBE「緑十字機 決死の飛行」
真の終戦に導いた“太平洋戦争ラストミッション”、それは戦争を1日も早く終結させるための生きて帰る保証が全くない旅。“平和の白い鳩”緑十字機の決死の飛行だった。
しかし、日本の未来を託された緑十字機は、連合国との交渉後、その帰路で謎の不時着を遂げる。一体なぜ、国家存亡の危機に直結する、このハプニングは起こったのか?

日本政府からもGHQからも公表されず、国民の誰も知らなかった空白の7日間に一体何が?戦後日本の命運を分けた運命の飛行機は、今も鮫島海岸沖で静かに眠っている。

安藤明、厚木飛行場撤去作業について紹介:1:03分頃

一介の運送屋が、事もあろうに高松宮の命をうけ、一心不乱に全身全霊を尽くす

高松宮殿下は戦争末期のころ、民間の情報をつぶさに得たいと、当時、高等技官として優秀な松前を呼ばれ、戦況などについて下問されていた。 戦後になると宮は、天皇制の存続の是非を問う議論がごうごうと鳴り始まり、天皇を戦犯として処刑すべしという動きが高まるってきた。










広島、長崎を襲ったあの惨害の後、直ちに調査団が結成され、松前が団長となる。

現地を視察してこれが原子爆弾であるとの確信を得て、宮にご報告された。

宮はアメリカ軍の情報を知りたいと松前に下問した。
松前は、安藤がアメリカ軍の最新情報を得ていたのを知り、宮に直接紹介することになってきた。

昭和20年9月6日
安藤は松前に連れられて、モーニング姿に威儀を正し、芝の高台にある宮邸を訪問したのである。

「博士からくれぐれも言葉に注意するようにといわれたが、労働者上がりの自分にとってはいささか閉口した」

父にしてみれば子供たちにこの栄誉を知らせたものだった。

「宮様にお目にかかったのは、海軍省の会議室でした。そのときは宮様とも知らず大変失礼をいたいしました」

頭をかいて挨拶するのを見て、宮様も思い出されて笑っておられたという。
妃殿下ご同席され、日本料理とワインおを頂くうちに次第に言葉が過ぎて、松前が注意をすると

「いいよいいよ。面白いから話をもっと聞きたい」

とおっしゃったそうである。

「ところで安藤、お前のことは松前から聞いている。GHQ(General head Quarters)との連絡がとれるそうだが、どうだろう・・様子を聞いてくれまいか。私たちはどうなろうと構わないが、しかし陛下は・・兄君だけは・・・」

言いかけて宮様は絶句され、しばらくして、

「陛下は本当にいい方なのだ。それなのにまたひどい目にお逢いになる・・安藤!なんとか陛下をお助け申し上げてくれ」

とおっしゃたのである。

安藤はそのときの感慨を、

「殿下のお言葉はあまりにも突然であったため、私は胸が張り裂ける思いで、気持ちの動揺を抑え切れず、涙が出てとまらなっかた」

と語った。

安藤が半信半疑で聞いていた親さまの言った、

「天皇様のために働くのだ」

というお告げは、もはや疑う余地がなくなった。

安藤に火がついた。
頭の中は天皇制護持一辺倒となっていくのである。

一介の運送屋が、事もあろうに高松宮殿下のご下命をうけ、天にも舞い上がる気持ちでこれから一心不乱に全身全霊を尽くすことになるのである。

厚木事件に巻き込まれたが、これは事業と考えればはなはだ僥倖であったろう。法外の報酬もいただけた。

しかしこれから始まるすさまじい展開は、損得を離れ、ひたすらに無私の安藤だから出きた破天荒の裏技であったし神業であった。

(正直、私を始め遺族は、厚木事件だけでよかったのにと、思ったこともあったが、父は男として世界一のロマンを成した遂げたんだと、想いを切り替えている)

奇縁再び バーナード・フイッシャー大尉との出会い

大安組の本社は西銀座の新橋に近い土橋を渡り数寄屋橋に向って3軒目にある。当時では3階建てのモダンなビルであった。
以来、安藤の心は親さまの言ったアメリカ軍人とはどうすれば見つけられるのか無性に気なっていた。

小雨降る日、安藤が社長室からおりて玄関先に出ると、折から二人の将校風の軍人が歩いてきた。小雨の中を早足に通り過ぎそうになるのを、とっさに
「ハロー」と声をかけた。
「はい、こんいちは」と日本語が返ってくる。

「おやーあなたは日本語が出きるんですか」と傘を差し出し近づくと、
「はい、できるよ」と言う。安藤はびっくりしながら、
「雨ですから少し休んでいきませんか」
しばらく二人は話し込んでいたが
「どうぞ、どうぞ」と手招きすると、
「いいよ」と安藤の誘いに応じてくれたのだ。

三階の社長室に通すと豪華な応接セットを中央にして、通りに面して安藤のデスクがある
「どうぞ、お掛けくださいウエルカム。私はアメリカ軍を歓迎します」
安藤は自己紹介をしてから、
「あなたの名前はーー」と、尋ねると
一人の軍人は、

「私の名前はバーナード フイッシャー大尉と言います。日本語のお魚屋さんです」と笑いながら言うのである。

フィッシャー大尉もう一人を指差し、「彼はベヤー・ストック大尉です」と紹介する。
「やー、そうですか。魚屋さんですか。これは分かりやすいですねー」と安藤もうれしそうに笑って答えた。
秘書が驚きを隠しながらお茶を運んできて三人は次第にくつろぎ、フィッシャー大尉に、

「ところでどうして日本語がそんなにうまいのですか」と訪ねると

「私はアメリカの大学で日本語を勉強しました」
「それはすばらしい、それで日本に来ることになったのですね」と言うと、

「ええそうです。ところがフィリッピンにいる上官とうまくいかず、危なくドイツに回されそうになりました。それでは何のために日本語を勉強してきたか分からない。それならアメリカへ帰るといって、マッカーサー元帥を困らせました」

「えーあなたはマッカーサー元帥と親しいのですか!?」

安藤はひざを前に突き出し、胸の高まるのを押さえながらたずねた。

「私の父と元帥は親友なんです。私は一大尉ですが常に元帥に合えて、どんなことでも話し合える仲です」

安藤の驚きは大変なもので、この人こそ親さまのお告げにあった軍人だと確信し、
(やはり親さまの言ったことは本当だった。この軍人とよく相談してみよう。
きっとマッカーサー元帥とも連絡がとれるはずだ)と期待に胸を膨らますのである。

信じがたいが、この奇縁は次第に深い友情で結ばれ、天皇とマッカーサー元帥との会見へ、また、天皇制護持実現への八面六臂の秘策を練る関係ができるのである。


天皇制護持 GHQへの侵入

それからである。西銀座の本社ビルの屋上から『天皇制護持』の懸垂幕が大きくかけられた。

毎朝社員を集めて屋上の社殿に拝礼と皇居に向かい最敬礼を実施した.
「社長は何かが乗り移っているようで、生き生きとしていた」
連日のようにバーナード フイッシャ大尉と面会して手がかりを模索した。

丁度マッカサー元帥の側近、ボナー・F・フェラーズ将軍(マッカーサーの軍事秘書、准将)がある人を探していると言う情報を得た。

安藤はフイッシャー大尉に同行し、アメリカ大使館の門をくぐった。
「これはチャンスだあ。おそらく民間人として訪問するのは最初でらう」と述懐している。

フェラーズ将軍に会った安藤は、
「私は小泉八雲(http://www.geocities.jp/bane2161/koizumiyakumo.htm)の孫と
戦前アメリカ大使館の武官をしていたとき親交があった。この際小泉さんと会いたいので探してほしい」と依頼をうけた。

安藤は、早速警視庁の西村直己総務部長(後の自民党代議士)とあってこの件を依頼した。幸いに探し出すことが出来、9月10日安藤は小泉氏を伴ってフェラーズ将軍に面会し、

「将軍は、直ちに再開が出来たことに驚くとともに大いに喜ばれ、お陰で私も大いに面目をほどこすことが出来た」と、
安藤の日記にある。

特に安藤が驚いたのは、
「アメリカが日本を敗戦に間追い詰めたのは間違いであった。これは自由主義国家郡の大損失であり、ソ連に漁夫の利を与えることになるアメリカの失政であった」と断言した。

安藤は驚くと共にこれはチャンスだと思った。
「天皇制を守らなければ日本は必ず崩壊するであろう。ソ連が日本に共産主義を作り上げるであろ」
と訴える。

将軍は、
「フィッシャー大尉から君の事は聞いている。マッカサー元帥とも相談してできる限り協力をする」と、
安藤にとっては空を掴むような難題にたして実に心強いありがたい言葉を貰った。

日本の占領政策はマッカサーを始めとする12~3人の「バターンボーイズ」とよばれるグループによって決められていった。中でもフェラーズ将軍と、マッシューバ大佐が実権を握っていたのだった。

フェラーズは親日派の第一人者で元帥に多大な影響を与えていた。

「フェラーズ将軍の居室はマッカサー元帥の隣にあり、私との相談に必要に応じてすぐ元帥の答えを持ってきてくれたと、GHQの心臓部へ食いさがり心臓の鼓動が聞こえてくるのであった」と、

「敵であるアメリカ軍の将軍が日本再建の政策として、必ずしも天皇制を排除しないとの心情を吐露してくれるとは」

安藤は信じがたい実情に驚きを隠せなかったと、述べている。


日本フィクサー列伝(R30/宮崎学)

宮崎学が、時代のフィクサー(黒幕)として、安藤明、を紹介。
朝日テレビが安藤明の業績を45分のドキュメンタリーで全てカバーした、完成度が一番高いドキュメンタリー。これを見れば、安藤明が分かる!


Youtube
YOUTUBE /フィクサー列伝 安藤明

安藤明―昭和の快男児 日本を救った男(古川 圭吾 )

終戦直後、焼け野原の東京・築地に「大安クラブ」が誕生した。多数の美女たちが雇われ、GHQ高官相手に接待攻勢が繰り広げられた。酒、女、破格の贈り物…私財を投げ打って、この昭和「鹿鳴館」を開設した男の名を安藤明という。その目的はただ一つ。天皇制護持ー。歴史の彼方に消え去った快男児の生涯が甦る。終戦史に一閃の光芒を放つ「大安クラブ」の全貌。

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昭和の快男児日本を救った男安藤明