2016年6月2日木曜日

獄中日記


昭和21年7月6日、小菅刑務所で6ケ月の禁錮刑を受けた。

安藤は判決が、死刑か少なくとも10年ぐらいの懲役は覚悟していただけに、晴れ晴れした気分で小菅刑務所の門をくぐった。

明 監獄内人生で始めての投獄生活である。
米軍による収賄容疑事件は、安藤の黙秘によって闇に葬られ、米軍の判決によるこの囚人を日本側の刑務所に委託する形の監修である。

いわば客のような囚人である。

安藤が過ごした前代未聞の獄中生活は、囚人にしては王様のような振る舞いを聞いていただきたい。
自身の残した獄中日記である。


他方、安藤の獄中生活の最中、安藤を早期に釈放依頼の嘆願書を出した大安組幹部関係者は、GHQからの回答として次のように書面が送られてきた。





『安藤明は厚木基地の整備に多大な功績があるのはよく分かった。しかし、司令部の米軍将校の数名が安藤の件で罷免になり、本国に送還されたことでもあり、この判決は全く最低の申し訳程度である。したがってこれ以上はどうにもならない。仕事の支障が出ているとのことだが、本人との連絡や打ち合わせは困らぬようにしてある。そのために、服役先を日本の刑務所にしてある。この旨を刑務所長にも伝言してある。以上のごとく回答する』

おそらくこの回答文すら異例のことであろうが、囚人安藤はアメリカ側からの客人のようになっていたのである。
(獄中日記は、ノートやメモ帳の4冊につずられている)


さて、冒頭は入所後の内部抗争が書かれている。
「岡部長敬刑務所長は、私になにかと気をつかってくれる。収監されるや私と相談してなかでもよさそうな独房に入った。囚人のみならず、看守たちも特別扱いをしてくれる」

「しかし、監獄の掟らしきものは、囚人同士に特有な力関係があり、私を悩ます」

「入所して2~3日して長期刑の囚人でボスらしきものが、私に突然ベルトで撃ちかかってきた。
私は逆にそのベルトを取ってしめあげた。第一ラウンドは早々にけりがつく」
と、安藤は鍛え上げた百選練磨の喧嘩技がある。胆力といえ技といえそれはするどい。

また、食事中にKなる若い大男の囚人が。
「大安組の安藤とはどの野郎だ!生意気なやつだ。ただではすまさんぞ!」
と血相をかえて食堂に飛び込んできた。

これが恐るべき監獄内部の生活なのかと、知らん顔をしていると、また
”お前が安藤か。この野郎!とぼけやがって、出て来い”

と怒鳴りまくる。ついむかむかしてよく見ると、男は手にこん棒のようなものを持っている。

「俺が安藤だ。」と決死の形相で立ち向かい、問題なく打ちのめして、さらに撃って打って撃ちまくってやった。そこへ看守が飛んできて、俺のすさまじさに声をなくして見守るばかりであった。男は悲鳴をあげて泣き出し、床に正座して謝罪した。

この事件はたちまち所内に知れわたり、爾来Kなる男は、安藤がコラ!と呼ぶとハイ!と大声で返事をし、私に慣れ親しんで来た。朝風呂では私の体をよく洗ってくれた

「私はKの面倒を看て、出所後は会社で引きとり彼の両親にもいろいろ尽くしてやった。
Kは結婚して三人の子供の親となった」 

監獄の掟を力で制した上で、囚人の面倒を見るという囚人のボスとして獄中生活が始まった。