2016年6月1日水曜日

獄中生活


ボスになった安藤の囚人としての生活ぶりを見てみよう。

妻、正子(私の母)は当時の様子を次のように述べている。
面会に行くと、青い囚人服を着せられていました。
私が涙ぐむと、

「なにをめそめそするのだ。
これでも今の俺にとってはモーニングのようなものだ。」
と威張っているんです。

毎日のように差し入れにいきましたが、多い時には一日三回も行きました。
いろいろ折詰を作って運んでいましたが、看守や囚人にも分けてやるといって、だんだんそれが大ぴらになり、すき焼き会だの、お汁粉会だの、やれテンプラ会などと、40人分だ、50人分だというのです。

献立は大安クラブで作りました。それを看守たちが取りに来て運んでいくのです。
また、やきいも会は盛大で、イモを百貫も持ち込み、監獄の庭で囚人たちと焼きあげ、
なかには喜んで泣いている人もいました」という。

終戦後の食料事情が悪いのはご存知でしょうが、看守までもがご馳走にありつくという、大判振る舞いであった。

朝一番の風呂は、Kを始め2,3人が安藤の体を洗うことから始まり、
看守にも囚人にも「先生、先生」と呼ばれて、
囚人にして看護司に命じられ腕章をつけられて、獄中を自由に巡回して囚人の世話を看ていた。

しかし日記には、安藤にとっての初体験である180日もの獄中生活への耐え難い苦悩を表している。

「昭和20年と21年は俺の計算違いであったと思って、あきらめることにする。
天皇のために必死で働いてあげた事は、せめてもよくやったと自分をほめてやって、一切をあきらめる」

「俺は只、天皇が万一の御事があってはならないと、8月15日より夢中であった。
われながらなぜあのように夢中になったのか不思議である。近々新憲法も出来るらしいし安心だ。
俺の努力は知る人ぞ知るであって、胸中深く思い出としておきたい」

安藤は10月7日朝日新聞で新憲法が成立すると知る。
(正式に新憲法の発布は昭和21年11月3日)

翌日は(10月8日)憲法草案が、貴族院議会と、衆議院の両院で可決されると、

「万事、感慨無量なり。ホットする感情を抑えることができない。
定めし御皇室はご安心のことと、おめでたい事限りなし。万々歳・・・」

それとともに、
「俺は、左翼や右翼のように名前を売ってどうこうしようとは、考えたことがナイ。俺の使命は終わったのだ」
と惜別の感をもつのである。

さらに、
「神よ、世界の正しき神々よ。このお気の毒な天子様の上に、幸せを、慈光を深く恵ませたまえ」
と祈るのである。

獄中に居ながら国と皇室のことを心配しているのだが、日常の倦怠感と無常感には閉口していて、
早く日が経て、時が経てとあと何日と数えては苦悩の色を濃くしているのである。

「自己のすべてを忘れて、只、ぼんやりと行動して一日一日を過ごすのが囚人の所内の生き抜く手段らしい」
「今日も一日、屁のようにくれた」

と何度も書かれている。

一日千秋の思いで暮らした監獄生活にも刑期の終りが近づいて、

・・出獄と お正月との 重ねもち 目出度き春を いざ祝わん・・大安
と読んでいる。

刑期は昭和21年7月6日から6ヶ月の禁錮。
1月6日の前に、実際の出獄は役所の都合で早まり、昭和21年12月26日になったのだ。