2016年6月4日土曜日

安藤逮捕

昭和21年1月1日、天皇の人間宣言。
マ元帥の天皇不起訴決断。

2月 新憲法草案作成。
東京裁判開始。などと,めまぐるしい状況が変化していた。

5月3日、アメリカ軍人を懐柔したとのことで大安クラブは閉鎖させられた。

安藤は戦後始めての新春を迎え、新たな思いで事業に精を出さなければと考えてはみたものの、
天皇問題が一段落して心に一寸空白の時間が流れ出していた。

そんなころ、周囲から安藤は逮捕されるのではないかとうわさが流れてきた。

「天皇問題も一応解決したことだし、あれだけ司令部を騒がせたのだから、逮捕もうそではあるまい。今となっては思い残すことはない。ただ会社の資金繰りがうまくいかず心配だ」

と、安藤は「あれほど浪費したのだから、そのツケが回ってきた」として
半ばなげやりな気持ちでいた。


親さまが言った、
「安藤。天子様を助けた後には、神も仏もない地獄がくるぞよ」の言葉が気になりだしていたが、その親さまから「やけになるなよ!」と諭されて成り行きにまかせていた。

逮捕の日は、昭和21年6月12日 

安藤は前夜に前歯が抜ける夢をみた。
「私は元来朝は早く起きるが、そのことを家内に話すと、歯が抜けるのはよくないことだと言われて
心配そうに見るのである。気が進まないまま出社したが、なんとなくイヤになって、午前10時ごろ帰宅した」

「かねてから頼まれていた裏の畑でジャガイモ堀をして、イモを鍋で煮ているとき、家内の慌しい声がして、MP(アメリカ軍の警官)が多数来たという」

「やはり来たか」と玄関に出てみると、6~7人のMPがピストルを向けて上がりこんげきた。
「グーと睨み付けると、銃口が震えている」


「何だと聞くと、顔見知りの日本語のできる将校が」返答して、

「安藤さん。私は知りません。どうも横浜のMPに日本人が密告したらしので・・」と言う。
この大尉はかって彼の希望で、彼のエルジンの腕時計を時価の数倍高く買ってやったことがあり、
安藤は「エルジンの男」と呼んでいた。

なぜか筆者もこの時の光景を記憶している。塀越に見ろ下ろすと、屋敷を取り巻く道路には
沢山のアメリカ兵が銃を持って取り囲んでいた。

安藤は、「よし、一寸待て」と、縁側に座り、6月の新緑の庭園をみながら、
今煮えたイモとむすびを食べ、
「私の気性からしてMPにピストルを持って立ち向かったかもしれないが、親さまに諭された言葉を思い出して、気をおちつかせていた」
と、当時の事を語る。

その間にMPは家宅捜査をして、いろいろと物色し多くの日本刀や、アメリカ軍人から貰った珍しいみやげ物などが押収された。

安藤は、
「飯を食い終わり、連行されてジープに乗り込むとき、正子と息子の眞吾が寂しそうに見送っていたことが忘れられない」と書いている。

残された正子に、エルジンの男は、重大なことをもらして行った。

「安藤さんはGHQの高官や、キーナン検事などの犠牲になってもらうのです。
そうでもしないとアメリカ軍がソ連や連合国に対してまずいことになります
。そんな事情で連行するのですから、安藤さんにはいやな思いはさせません。
すぐにでも面会できるようにしておきます」

と、不安とも安心とも分からない言葉を残していった。

事態は親さまの言う「神も仏もない地獄が待っている」

これからが、正に地獄の拷問が待っていたのである。

2016年6月3日金曜日

取調そして拷問


国思い 道にじゅんじし ますらおの 
心しのびて 我はいくなり

安藤の辞世の詩である。
[東京自家用自動車組合会長 安藤明]の名刺の裏に釘で書いたものである。
安藤はこれを分厚い手帳の裏表紙に貼り付けて保存していた。

安藤辞世大安組本社、別館などの家宅捜査も行われ、重役の総務部長増田一悦も逮捕されたのである。

増田は、元日本新聞の社長であり、安藤の思想的参謀であった。
安藤にも勝るとも劣らない熱血漢で大安クラブでの状況を知っているのは、
この増田と外部の松前総裁だけであった。


逮捕は大安クラブにおける米軍高官の懐柔と増収賄の容疑であった。
取調べは、新橋駅近くの田村町のCIA(情報局)で行われた。



「彼等の目的は、贈収賄者の名前を言え!の一点張りで、次々と脅しをかけてくる。
ピストルを突きつけられたが逆に睨み返し、相手が震えていたが、大安クラブでの調査資料を持ってきた」

安藤に見せては、
「これは安藤がやった贈収賄の一覧表である。増収の一切を認めよ」と」言うものだった。
「ここまできて天皇制護持の城壁を崩せないと、死を覚悟で黙秘を貫いた」と書いている。

「ベリービッグガイだ」と中野刑務所に移され、拷問の開始である。
2百燭光の強い光線を当てられて、フイに椅子を払って転倒させたり、ネクタイで首を絞められたり、「一番つらかったのは、竹くしの先を火で焼いて爪の間に突きさすのだ。その爪を靴で踏まれて悲鳴を上げたが、黙秘を貫いた」
「次の日の小便は血に染まってたいた」と書かれている。

マ元帥やGHQ恩人、皇室にも問題が及ぶと感じ、安藤は3度縊死(首吊り)を企てた。
「私は腹巻で三回企てたが、不思議にも布が切れて成功しなかった」とも述べている。


2016年6月2日木曜日

獄中日記


昭和21年7月6日、小菅刑務所で6ケ月の禁錮刑を受けた。

安藤は判決が、死刑か少なくとも10年ぐらいの懲役は覚悟していただけに、晴れ晴れした気分で小菅刑務所の門をくぐった。

明 監獄内人生で始めての投獄生活である。
米軍による収賄容疑事件は、安藤の黙秘によって闇に葬られ、米軍の判決によるこの囚人を日本側の刑務所に委託する形の監修である。

いわば客のような囚人である。

安藤が過ごした前代未聞の獄中生活は、囚人にしては王様のような振る舞いを聞いていただきたい。
自身の残した獄中日記である。


他方、安藤の獄中生活の最中、安藤を早期に釈放依頼の嘆願書を出した大安組幹部関係者は、GHQからの回答として次のように書面が送られてきた。





『安藤明は厚木基地の整備に多大な功績があるのはよく分かった。しかし、司令部の米軍将校の数名が安藤の件で罷免になり、本国に送還されたことでもあり、この判決は全く最低の申し訳程度である。したがってこれ以上はどうにもならない。仕事の支障が出ているとのことだが、本人との連絡や打ち合わせは困らぬようにしてある。そのために、服役先を日本の刑務所にしてある。この旨を刑務所長にも伝言してある。以上のごとく回答する』

おそらくこの回答文すら異例のことであろうが、囚人安藤はアメリカ側からの客人のようになっていたのである。
(獄中日記は、ノートやメモ帳の4冊につずられている)


さて、冒頭は入所後の内部抗争が書かれている。
「岡部長敬刑務所長は、私になにかと気をつかってくれる。収監されるや私と相談してなかでもよさそうな独房に入った。囚人のみならず、看守たちも特別扱いをしてくれる」

「しかし、監獄の掟らしきものは、囚人同士に特有な力関係があり、私を悩ます」

「入所して2~3日して長期刑の囚人でボスらしきものが、私に突然ベルトで撃ちかかってきた。
私は逆にそのベルトを取ってしめあげた。第一ラウンドは早々にけりがつく」
と、安藤は鍛え上げた百選練磨の喧嘩技がある。胆力といえ技といえそれはするどい。

また、食事中にKなる若い大男の囚人が。
「大安組の安藤とはどの野郎だ!生意気なやつだ。ただではすまさんぞ!」
と血相をかえて食堂に飛び込んできた。

これが恐るべき監獄内部の生活なのかと、知らん顔をしていると、また
”お前が安藤か。この野郎!とぼけやがって、出て来い”

と怒鳴りまくる。ついむかむかしてよく見ると、男は手にこん棒のようなものを持っている。

「俺が安藤だ。」と決死の形相で立ち向かい、問題なく打ちのめして、さらに撃って打って撃ちまくってやった。そこへ看守が飛んできて、俺のすさまじさに声をなくして見守るばかりであった。男は悲鳴をあげて泣き出し、床に正座して謝罪した。

この事件はたちまち所内に知れわたり、爾来Kなる男は、安藤がコラ!と呼ぶとハイ!と大声で返事をし、私に慣れ親しんで来た。朝風呂では私の体をよく洗ってくれた

「私はKの面倒を看て、出所後は会社で引きとり彼の両親にもいろいろ尽くしてやった。
Kは結婚して三人の子供の親となった」 

監獄の掟を力で制した上で、囚人の面倒を見るという囚人のボスとして獄中生活が始まった。

2016年6月1日水曜日

獄中生活


ボスになった安藤の囚人としての生活ぶりを見てみよう。

妻、正子(私の母)は当時の様子を次のように述べている。
面会に行くと、青い囚人服を着せられていました。
私が涙ぐむと、

「なにをめそめそするのだ。
これでも今の俺にとってはモーニングのようなものだ。」
と威張っているんです。

毎日のように差し入れにいきましたが、多い時には一日三回も行きました。
いろいろ折詰を作って運んでいましたが、看守や囚人にも分けてやるといって、だんだんそれが大ぴらになり、すき焼き会だの、お汁粉会だの、やれテンプラ会などと、40人分だ、50人分だというのです。

献立は大安クラブで作りました。それを看守たちが取りに来て運んでいくのです。
また、やきいも会は盛大で、イモを百貫も持ち込み、監獄の庭で囚人たちと焼きあげ、
なかには喜んで泣いている人もいました」という。

終戦後の食料事情が悪いのはご存知でしょうが、看守までもがご馳走にありつくという、大判振る舞いであった。

朝一番の風呂は、Kを始め2,3人が安藤の体を洗うことから始まり、
看守にも囚人にも「先生、先生」と呼ばれて、
囚人にして看護司に命じられ腕章をつけられて、獄中を自由に巡回して囚人の世話を看ていた。

しかし日記には、安藤にとっての初体験である180日もの獄中生活への耐え難い苦悩を表している。

「昭和20年と21年は俺の計算違いであったと思って、あきらめることにする。
天皇のために必死で働いてあげた事は、せめてもよくやったと自分をほめてやって、一切をあきらめる」

「俺は只、天皇が万一の御事があってはならないと、8月15日より夢中であった。
われながらなぜあのように夢中になったのか不思議である。近々新憲法も出来るらしいし安心だ。
俺の努力は知る人ぞ知るであって、胸中深く思い出としておきたい」

安藤は10月7日朝日新聞で新憲法が成立すると知る。
(正式に新憲法の発布は昭和21年11月3日)

翌日は(10月8日)憲法草案が、貴族院議会と、衆議院の両院で可決されると、

「万事、感慨無量なり。ホットする感情を抑えることができない。
定めし御皇室はご安心のことと、おめでたい事限りなし。万々歳・・・」

それとともに、
「俺は、左翼や右翼のように名前を売ってどうこうしようとは、考えたことがナイ。俺の使命は終わったのだ」
と惜別の感をもつのである。

さらに、
「神よ、世界の正しき神々よ。このお気の毒な天子様の上に、幸せを、慈光を深く恵ませたまえ」
と祈るのである。

獄中に居ながら国と皇室のことを心配しているのだが、日常の倦怠感と無常感には閉口していて、
早く日が経て、時が経てとあと何日と数えては苦悩の色を濃くしているのである。

「自己のすべてを忘れて、只、ぼんやりと行動して一日一日を過ごすのが囚人の所内の生き抜く手段らしい」
「今日も一日、屁のようにくれた」

と何度も書かれている。

一日千秋の思いで暮らした監獄生活にも刑期の終りが近づいて、

・・出獄と お正月との 重ねもち 目出度き春を いざ祝わん・・大安
と読んでいる。

刑期は昭和21年7月6日から6ヶ月の禁錮。
1月6日の前に、実際の出獄は役所の都合で早まり、昭和21年12月26日になったのだ。