とりわけ家族との面会がなによりも喜びであったのは、誰しも人の子、おなじである。
東条英機の弁護人は清瀬一郎が有名だが、同じく弁護人として活躍した塩原時三朗氏の訪問を受ける。元逓信院の総裁で松前総裁の前任者である。
安藤は1時間以上面談し、
「塩原氏は東条将軍の弁護人として有名だ。将軍の御心境を聞いて(開戦の責任は自分ひとりの決定であって、陛下はやむ終えず追従したと証言したこと)断然、日本軍人の姿を見出して安心した。心配していた陛下への戦争責任を東条は打ち切ってくれて、一人で責任を負ってくれた。
お上、御一人の御身辺に何事も無ければ、東条も英雄として死んでくださる。
敗れたとはいえ日本の行く手に一条の光明を見出す巨歩となる」
事実、マッカサー元帥が天皇不起訴のキーポイントとして、最後にこの東条の証言が重大な要素として懸念していたのである。
元帥は天皇不起訴の判断を「よし!これで結審した」と安堵の色を表していたのであった。
この重大な過程を事もあろうに、なぜか獄中の安藤に知らされ、安藤も安堵したということから、如何に一途に陛下のご安泰をいのっていたのかが窺える。
又ある日松前重義氏の訪問をうけて、
「松前博士の偉大な風貌とともに、いかにも学者らしい風格に触れ、親切な慰問と挨拶を受けて、
終生忘れられない」と述べている。
松前も
「いや安藤さん。しょんぼりしているかと思ったが、元気で太っているのには驚いた」と
大安クラブでの活躍の結果が、安藤を拷問にまで掛けられたうえの投獄に、深く頭を下げ彼の労をねぎらったと言っている。
高松宮との引き合わせ、天皇とマ元帥との会見、大安クラブでの快挙など、安藤の影武者のような存在であった松前との面談について、察するに安藤の心中は複雑であろうが、すべてを胸中に飲み込んだのである。
大相撲が好きであった安藤は、昭和17年に横綱になった安芸の海の後援会長をやっていて、
彼に横綱の化粧回しを贈っている。
安芸の海は
「まわしは頭山満さんの直筆で、 天行建 と揮毫してありました。横綱が借り物では可愛そうだといって急いで作ってくださいました。安藤さんはそうした男気のある人で、公私に大変お世話になりました」と回想している。
安藤の日記によると、
10月15日「午後藤島親方と安芸の海が見舞いにきた。正面土俵の14枚、13日分の招待券を持参した。安芸の海の断髪式問題で種々話をした」とある。
翌年の断髪式で一番ハサミを入れている。
安藤が服役している間の心配事は、時代の変化に付いて行けなくなってきた会社の経営難が芽生えてきたことだ。
自らの浪費が響いて資金難になっているのである。
「2百日の努めも精一杯よく努めた。迷いの道より開明の道に悟り得た。無駄にならざりし2百日の修道、余の永遠の悟道たれ。されば一大猛進をもって今後に処すと決心す」
と出所後への決意を高めている。